『霊的な新年の始め方』
みなさん、新年おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
皆さんは新年ってどうやって過ごしています?
私はどうも毎年苦手で、あまりうまく過ごせません。
休みなんだけど、やることいっぱいあったり、振り返りや、今年の目標や計画を考える時期でもあるからです。
メディアも焦らせてきます。
賢い生き方、間違えない生き方に目が行きます。
弟子からも「今年のテーマ聖句決めた」とか言われて「あーいやーまだなんだよねー」って焦ります(笑)。
霊的な正月、新年ってなんでしょうか?
今日は皆さんと一緒に学んでいきたいです。
出エジプト記12:1-14 & 21−28
ポイント1:主の過越の犠牲
聖書に正月が出てくるんですね。
ちゃんと神様は正月を定めてくれてるんですね。
何度もこの箇所は読んでるはずなのですが、ピックアップできてませんでした。
神様はこの過越の出来事を正月にしなさい、と言いました。
新年、一番大事な月、一番最初の月ですよね、ここから始めなさい、ということです。
なぜ神様はこの過越の出来事を正月にしなさいと言ったのでしょうか?
イスラエルの民は400年間エジプトで奴隷をしていましたので、エジプトの暦で暮らしていました。
もうそれが当たり前になっていたと思います。
それがこの日から正月が変わりました。
それって想像できますか?
すごいことですよね。
それでは今から7月を正月にします。
国でも法律でも整備されて、休日も7月に。
学校も会社も生活もバッタバタになります(笑)。
でもそう考えるとわかるのは、それほど大きいことがこの時から始まったということです。
神様にとって、そして私たちにとっても大事なことがここに書かれています。
昨年私たちはモーセシリーズをやりましたので、皆さんも覚えてらっしゃると思いますが、
この初子の災いはファラオとの対決では10番目の最後の災いでした。
これまでもカエルやイナゴの大群が押し寄せたり、ナイル川が血に変わったりもしました。
エジプトを抜け出してからもマナの奇跡、岩から水が出る奇跡、幕屋が建設されたり、多くの奇跡や重要な出来事がいっぱいあります。
でも、神様はこの過越の出来事を正月にしなさい、と言いました。
ここに神様の私たちへの意図、メッセージがあるのではないでしょうか。
家族ごとに1歳の傷のない雄の羊、または山羊を用意します。
一晩で家族が食べ切れる分の羊ですね。
正月の14日にはそれを屠り、その羊の血をその家族の家の入り口の鴨居と柱に塗ります。
そしてその日の夜にその羊を丸焼きにして、帯をしめて、靴を履いて杖を持ちながら、急いで食べます。
同じ夜に神様がエジプト中の初子の命をとります。
ただ、羊の血が塗られた家だけは、その災いが過ぎ越されます。
過越は普段使わない言葉ですよね。
英語ではpassover文字通り通り過ぎる、という意味です。
滅ぼす者が家に入って来ようとするんだけど、門の血を見て、入らずに通り過ぎていく。
想像すると怖いです、本当に。
そして、この出来事を語り伝えなさい、もうこの時から約束の土地に入った後も、
世代が変わってこれを知らない子供たちの代になっても継承されるように、必ず忘れずにこの過越を祝い、毎年この儀式をするように言います。
私は神様の強い意思を感じます。
必ず覚えていなさい。忘れては行けない。この出来事が重要。
モーセがイスラエルの長老を全て集めて伝える時に、26・27節でこう言います。
「これ主の過越の犠牲である。」
私は過越を考える時に、血を門に塗ることや、急いで食事をしたり、災いが来るのを怯えたり、来なくてよかった、
そういうことに目がいってしまいますが、そうじゃなく、この過越は神様自身が犠牲をしてくれた、その大きな印だ、ということなんですね。
イスラエル人だからというだけで初子の災いが過ぎこされたわけじゃないです。
子羊の犠牲がなければ、血を門に塗らなければイスラエルの民であってもエジプト人と同じように初子、最初の子供の命が取られました。
違いは何か。
ただ、子羊の犠牲があるかどうか、だけでした。
そして神様自身が犠牲を払って子羊を差し出しました。
それが主の過越の犠牲です。
神様が正月に、新年一番最初に私たちに覚えていなさいと強く願っていることは、私たちにはこの神様からの過越の犠牲があったことなのではないでしょうか。
二つ目のポイントでもより詳しく話していきたいですが、この過越祭はイエスを象徴しています。
私たちにはイエスという神様の過越の犠牲が与えられています。
神様は過越の犠牲を覚え続けて欲しいと、正月を変えてまでも私たちに強くメッセージしてくれています。
私たちはそれを受け止めているでしょうか?
ちょっと話が変わるのですが、リメンバーミーというディズニーの映画があります。
見たことある方いらっしゃいますでしょうか?
もう何年も前の作品ですが、とても良い作品なので、もし機会があったら是非見ていただきたいですが、
メキシコが舞台で、そこでは日本でもありますがお盆みたいに死者の魂がこの世にやって来れる日があるんですね。
大きな黄色いきれいな橋がこの世とあの世を繋いでいるのですが、設定が面白くて、現世にその人の写真が飾られていたらその橋を渡ることができるんですね。
逆に、一枚も写真を飾っててもらえてなかったら、橋を渡ってこの世に来ることができません。
なぜなら誰もその人を待ってないからです。
そして、現世に写真もなく、生きてる人の誰の記憶からも覚えてもらえなくなった時、一人もその人のことを覚えてる人が居なくなった時、あの世の住人は、その存在が消えてしまいます。
アニメですが、考えさせられます。
覚えていること、思い出し続けること、に対して深い洞察がある作品だと思います。
神様はリメンバーミーじゃないので、たとえ私たちが忘れてしまったとしても居なくなりはしません。
でも、私たちはどれほど神様を覚えることに必死になれているでしょうか。
どれほど重要なことと捉えているのでしょうか?
ユダヤ人は過越祭を特別にします。
今のユダヤの人たちは毎年3月末から4月にかけて過越祭をやるのですが、暦によって毎年ちょっと変わります。
今年は3月27日から4月4日までです。
ユダヤ人はこの過越の祭りを一年で一番大事なものとして、長い期間をかけて準備します。
私たちはもう新しい契約を信じてるので、ユダヤ人の過越祭をする必要はありませんが、神様の想いに反応する心と態度は学ぶ必要があるかもしれません。
今年、2021年は何かをしなきゃと、成長しなきゃと慌てて計画する前に、心鎮めて、私たちに与えられている神様からのイエスという過越の犠牲を思い出しましょう
もし、神様が犠牲をしてくれなく、イエスが与えられてなかったら、私たちの人生はどうなっていたでしょうか。
もしイエスが与えられてなかったら、私は救われる前の満たされない不安で自己中心的な生活を今でもしてたと思います。
自分のやりたいことを生きがいにして、明日がないように生きて、多くの人を傷つけ、もしかしたらアルコール中毒になっていたかもしれません。
本当に心許せる親友はなく、異性関係でも破綻と罪を繰り返していたと思います。
考えてみればみるほど、今私が持っているもので、イエスなしに与えられたものは一つもないと思います。
イエスが居ない生活は考えられません。
私が知ってるある兄弟は、明日電車に飛び込んで死んでしまおう、そう思っていたときに教会の人からメッセージをもらい、教会にきました。
もしイエスが居なかったら、その兄弟は死んでしまっていたかもしれない。
みなさんはどうでしょうか?
神様は自分の初子、一人子であるイエスを差し出し、犠牲にして、私たちの命を守ってくれました。
羊の血が門に塗られているように、イエスが私たちを災いから守ってくれました。
今日のDグループでは神様の犠牲を覚え、感謝し、祈る時間をみなさんでぜひ持っていただけたらと思います。
ポイント2:最後の過越の食事:イエスを覚え続ける
ルカ22:14-20
イエスが十字架にかかる前の最後の食事は、過越祭の食事でした。
エジプトで過越の出来事があってから約1500年間、イエスラエルの民は忠実にこの過越の食事を守り続けてきました。
レオナルドダビンチの最後の晩餐の絵が有名ですが、実際には当時ユダヤ人は寝ながら食事をしていたので、この写真のようにしていたのではないかと思います。
切に願っていた、とイエスは言います。
これは英語では「desire」、切望する必死になって願うという意味です。
イエスはどのような想いからこの最後の過越の食事を切望していたのでしょうか?
昨年、私たちは旧約の影とイエスに見る実態を学んできました。
子羊の血によって初子の呪いの災いが過ぎ越され、イスラエルの民は奴隷から解放され約束の地・カナンの地へ入っていきます。
それは、イエスが私たちの罪のために死んで十字架にかかり、それによって本来なら私たちが受けるべき罪の報酬が過ぎこされ、天国に入る約束が与えられるという実態の影でした。
イエスは自分が預言されていた過越の食事を自分が取ることをどのように感じてたのでしょうか?
この食事の後に、自分こそがこの羊のように十字架にかかっていくことをわかっていて、その苦しみの前にどのようの想いで弟子たちに語っていたのでしょう。
イエスが十字架にかかることで、過越祭が本当の意味で成就されます。
だからこそイエスは「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」と言ったのではないかと思われます。
もう、過越の食事をとる必要がないからです。
もう完全な災いに対する過越の犠牲が払われたからです。
代わりにイエスが私たちに与えたのが、聖餐式で私たちがとっている、イエスの血を象徴するブドウ液と、体を象徴するパンを食べ、イエスを覚えることです。
イエスは自分自身を与えられるこの日を、切に願っていたのではないかと思います。
愛する一人一人に、完全な災いに対する過越である自分自身を与えられる。
象徴的にであれ、その食事を一緒にできるのはイエスにとって苦しみの十字架が始まる前の最後の平安と喜びのクライマックスだったのではないでしょうか。
今日も、そして私たちの教会は毎週聖餐式をとります。
私たちはイエスの十字架を思い出しますが、聖餐式は同時にイエスが私たちのために過越の子羊になってくださり、私たちの罪が赦され、災いは過ぎ越され、決してなくならない天国の希望を覚えることができる時間でもあります。
決して揺るがないイエスという希望を覚えることができる時間です。
新年になり、東京ではいきなり緊急事態宣言が出ました。
全国で見ても今が一番感染者数が高いです。
2020年、コロナと戦い続けてきました。
教会としても2月末からオンラインになり、夏までには収まるんじゃないか、秋、いや今年の12月までには、と思ってみんなで守り合い頑張ってきたと思います。
そんな中での年明けからの緊急事態宣言。
みなさんはどう感じていますか?
ネガティブになりたいわけじゃなく、ですが同時にリアリティを掴みたいと思っています。
私自身不安があります。
今年はどんな一年になるんだろう、何ができるんだろう?
現実的で具体的なゴールをどこに設定したら良いんだろう?
今年ほど先が見えない新年もなかったなと思います。
先が読めません。
その中で、イエスの弟子として私たちは何ができるのでしょうか。
私はそれは、改めて日々イエスを覚え続けることだと思います。
ただ覚えるのではなく、イエスの切に願っていた、その愛に触れ続けましょう。
神様が犠牲してくださった、イエスが十字架にまでかかってくださったことを知っている私たちだからこそ、このコロナの時代であっても、弟子として日々イエスを思い出し、聖書を読み、御言葉に従い、罪をメタノイアし、世の中がどうであっても希望を持ち続けましょう。
今、大きなことはできないかもしれません。
でも、日々の中で私たちはイエスと共に生きることができます。
神様を愛し、隣人を愛し続けましょう、自分がしてもらいたいことを相手にしましょう。このコロナ禍であっても、私たちにはイエスという希望があります。
その希望を持って日々を過ごしましょう。
昨年、WGOシリーズを通して、またオンライン礼拝やGEP、黙示録シリーズなどを通して学んだことがあります。
それは、悩んでる人、なんとか今の苦しい状態を変えたいと思ってる人が大勢居るということです。
そして私たちは聖書からその人たちの助けになることができる、という事です。
それは遠い人たちじゃなくて、私たちの家族や会社の人、昔からの友達など、近い人たちです。
手の届く人たちです。私たちがその人たちの助けになり、苦しみや囚われてる傾向から抜け出すためのキッカケになれる可能性が大きくあることを学びました。
どんな時でも、たとえコロナが全世界で広がっていても、聖書の御言葉の力強さ、そして希望はなくなりません。
今年も、みなさんと一緒に神様を愛し、教会を愛し、私たちに与えられているこの東京の地で神様を現して行けること、楽しみにしています。
今日は新年ということで過越祭からお話しさせていただきました。
ぜひDグループでは最初のポイントである神様の犠牲を覚え、感謝し、祈る時間を持っていただけたらと思います。
また二つ目のポイントであるイエスを覚え続けるために何ができるか、何をするか、考えていただけたらと思います。