『立ち上がる信仰』
スライドはこちらから→20200614 マルコシリーズ2 立ち上がる信仰
先週、マルコの1章からイエスは王であり、僕であることを学日ました。
今日はマルコ2章から学びます。
マルコ2章では、ファリサイ派がイエスが救い主なのか確かめに来ます。
今日は中風の人から学びましょう。
ポイント1:中風の人のように助けを求める
マルコ2:1-12
この有名な話、何度でも読んだと思います。
イエスの噂はイスラエル中に広まっていました。
イエスを求めて、彼がいる家には何人も集まりました。
当時、セキュリティが大らかだったのでしょうか?
日本でも、地方は今もそうだと思います。
小学生の時、福井に祖父母がいるというので友人について行ったら、
「鍵なんていつ閉めたっけ?」というぐらい大らかな土地で
カルチャーショックを受けました。。。
イエスのいる場所、三密状態だったと思います。
イエスに癒して欲しいと、中風の人を友人が連れてきました。
中風は今で言うと脳卒中。
自分で立ち上がることが出来ませんでした。
友人たちは、家がすし詰めだったので
イエスがいる部屋の天井を壊して引き下ろしました。
そしてイエスは、「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました。
この場面、どこに注目しますか?
友人たちの大胆な信仰ですか?
チームでイエスのもとに運ぶ結束力ですか?
ここを改めて読んでいて、一つ気づいたことがありました。
私は中風の人を好きではない。
この場面の誰かになれるなら、イエスか友人たちになりたい。
助ける側に回っていたい。助けられる側でいたくない。
この場面で、中風の人が友人たちに何と言ったかわからない。
私はちゃんと聖書を捉えられていないのでは?と思いました。
自分の力で出来ないことはしてはいけない、と考える傾向があります。
自分は情緒剥奪スキーマがあります。
自分の本当の願いを伝えるのが難しいです。
自分のニーズが叶えられることをどこかで期待していない。
だから、ポーカーフェイスでいつもいてしまいます。
助けを求めることは苦手です。
諦めて今の場所にいてしまいます。
・拒否されるのが怖い
・わがままを言ってはいけない
・人に迷惑をかけてはいけない
・助けて貰う側に回りたくない
・自分で対応しなくてはいけない
・人に頼るのは一人前じゃない
・助けて貰うことは恥ずかしい
などの思いからです。
自分に対して、よく出来ている、頑張っているよと言い続けてしまいます。
でも本当は助けて欲しいです。
大ごとにはしないで、と助けを拒んでしまうことがあります。
周りが助けようとしているのに、動けない時があります。
引っ張って助けて貰う必要がある時もあります。
先日、ある兄弟に助けて貰いましたが、傷付いた思いがありました。
他の兄弟にそのことを話した時、
「真、その兄弟にしっかり本当の思いを伝えた方がいい」
とアドバイスをもらいました。
相手の兄弟に
「うまくいかずイライラする思いがあったし、
がっかりして自信をなくす思いがあったので、助けられました。
でもよく出来ていることも認めて伝えてくれると嬉しいです」
と脆弱に伝えました。
受け入れて貰い、癒される思いがありました。
脆弱に話すと関係が近くなります。
脆弱に自分の気持ちを話す、
本当の想いを伝える、助けを求めることで、
自分が癒され、安心し、相手を助けることにもなります。
助けを求めない自分は、恐れを手放さず、
人ともイエスとも距離を置こうとしていました。
それは的外れ、罪です。罪は関係を壊すもの。
今、私は利己心の罪を捨てて、助ける者になるというチャレンジをしています。
私たちは自分から助けを求める者でしょうか?
何が助けを求めることを躊躇させていますか?
人は頼ることが難しくなる時もあります。
助けが必要ないと思う人は、自分が見えていません。
マルコ2:12
中風の人は、助けられる人になることでイエスの栄光を現すことが出来ました。
大胆にイエスを求める者になっていきましょう。
ポイント2:イエスの権威を認める
マルコ2:6-12
律法学者もイエスを確かめようとしてこの三密の中にいました。
偽預言者なら殺そうとしていました。
イエスの言った「子よ、あなたの罪は赦される」、は冒涜の言葉でした。
罪を赦すのは神の権威で、それを犯しています。
イエスが言った「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、
『起きて、床を担いで歩け』と言うのと」 2つはどちらが易しいでしょうか?
口語訳、NIVでは
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」の言葉の前に
「しかし」が入っています。
罪が赦された、どのように確かめれば良いですか?
神様にしか確かめられません。
でも、「起きて歩け」はすぐ結果が出ます。ごまかせません。
イエスの言葉には権威がありました。
歩くこと、罪の赦しも実現しました。
イエスは「私は罪を許す権威を持っている」と言って世に現れました。
イエスは全てを自由にする権威がありました。
嵐を沈める、悪霊を追い出すなど。
イエスにとって中風の人を立ち上がらせること、簡単でした。
立ち上がらせるのが難しいというのは、人間的な視点です。
イエスは、「どちらが易しいか」と聞きます。
視点を変えさせられます。
イエスはファリサイ派の人々、群衆に何を伝えようとしていますか?
どっちが難しいか、というベースで私たちは考えます。
イエスはどっちも易しい、という視点。
イエスだけが全く違う視点を持っていました。
イエスは権威あるものである、という視点を教えてくれます。
今日もハッとさせられます。
神様であれば何でもできます。
私たちは立ち上がること、難しいと考えてしまう。
努力が足らない、信仰が足らない、もっとやらないとと考えがちです。
私たちは人間的な視点をやめて、神様の視点を持つことをしないといけません。
マルコはさらっと書いていますが、大きな感動がありました。
イエスの権威を信じるのは易しいことではありません。
それを信じることはどのようなことか?と考えた時、
バプテスマを受ける時を思い起こしました。
私たちはバプテスマを受ける時、心から信じて水に入ります。
イエスの権威を信じ、信頼して入るのです。
イエスがいるので、私たちは弱くても奇跡が起きます。
私たちはイエスの権威を認めるからこそ、何度でも立ち上がれます。
今年も6月になりました。
今年、どんなビジョンを持ちましたか?
信仰生活は大きいことをするのではなく、
イエスの権威を認めて、その視点で見ていくことです。
イエスが何者か、明確にマルコは示してくれました。
聖書、QTシリーズで正しくイエスを見ていきましょう。
今年はまだ半分以上残っています。
イエスの栄光を共に見ていきましょう。