『光は暗闇の中で輝いている』
クイズ:ヨハネにはイエスに付けられたあだ名がありました。何でしょうか?
A.雷の子
B.天気の子
C.転校してきたあの男の子
D.たけのこ
正解はA。気性が激しかったヨハネをイエスはそう呼んだ。
今日、その彼が書いた福音書から学びましょう。
ポイント1:イエスは世の光
ヨハネ8:12-20
最初に12節に注目したい。
イエスは自分を光と表現した。
「光」と言われると、皆さんはどのような光を想像しますか?
夏の熱い日差し?キャンプファイヤーの薪が燃えるような?
イエスはどのような光を自分と例えたのでしょうか?
ヨハネ8章は、7章の続き。仮庵祭の最中。
仮庵祭は、モーセの時代にエジプトを出て40年さまよい、仮の住まいで暮らしたことを思い起こすユダヤ人にとって大事なお祭り。
祭りの日、夫人の家に蝋燭に火を灯し、最終日まで火は燃え続ける。
荒れ野をさまよう間、神様は昼には雲の柱、夜には立ち上る火の柱となってくださった。
その柱の象徴の蝋燭が燃え続ける。
その中でイエスは「私は世の光」と宣言した。
イエスは命の光を持つ。
それを仮庵祭と関連させて話した。
私はあなた方を導く光、ついてくれば過ちはないと。
先祖たちがついていったように、私についてきなさい
イエスの言葉は肯定するか、否定するか迫る。
曖昧さはない。
ファリサイ派の人々は抗議した。
人間のイエスが神様と宣言したこと、冒涜であり赦せない。
自分について証しているので、真実ではない。申命記によると、複数人の証人が必要だと。
でもイエスは決して言論を曲げなかった。
イエスは光。光である神様と同じ存在。
イエスの言葉、私たちに何を示そうとしていますか?
私たちは光がなければどうなりますか?
おたまじゃくし、育つと50日でカエルになる。
おたまじゃくしの状態で一度も光を浴びないと、姿を変えられず、呼吸ができず死んでしまう。
イエスは人に命を与える。
自分にイエスがいなかったら?
肉体的には生きていると思うが、自分のためだけに生きていると思う。
嘘が上手くなり、心からの親友はいなかったと思う。
偽善という螺旋階段を登り続ける生活。
生きる目的が見えないまま、死んでいったと思う。
プロフェッショナルミニストリーの一人一人にも神様の光が見える
家庭環境がボロボロだった兄弟がリーダーになり、みんなの親のような存在になっている。
病気で親を亡くした姉妹、孤独や悲しみに寄り添い助ける存在になっている。
行き場を失って自殺しようとした兄弟、子供たちに仕えてくれている。
一人一人にイエスという光に変えられたストーリーがある。
皆さんにとって、イエスは光ですか?
イエスは今でも人生の光を照らしてくれる。
イエスは命の光。
それを見て従っていきましょう。
ポイント2:「私はある」ということを信じる
ヨハネ8:21-30
イエスは自分が世の光だと言った後、急にモードが変わったように見える。
話すことを受け取ると、イエスは自殺するように思えた。
イエスは世の光。
だが「近々私はいなくなる、あなた方は私を探すが一緒に行けない、あなた方は罪の中に死ぬ。」
イエスは何を言っているのでしょうか?
「私はある」、旧約聖書で神様を表す表現。
イエスは自分が死に、天国に帰ることを話した。
他の皆はこのままでは天国にいけないと。
自分が十字架にかかって死んだ後、皆は言っていることを理解するだろうと預言した。
読めば読むほどイエスの決意と情熱を感じた。
皆が天国に行くには自分が十字架にかかる必要があると確信していた。
光の存在としてのイエス。
そこには暗闇があることも書かれていた。
ヨハネ1:4-5
皆さんは罪、自分の闇について最近どれだけ話しますか?
最近、私は闇に向かい合うことに取り組んでいる。
傷ついた自分、隠れている自分。
理想の自分の裏側で存在し続けている。
今までと同じ生き方では人生が立ち行かないという、行き詰まりを感じていた。
兄弟に相談したところ、「情緒的に健康なリーダー・信徒を目指して(ピーター・スキャゼロ)」という本を紹介して貰った。
本からの学びに取り組みながら思ったのは、見たくもない自分の特性。影響力。
自分がどれだけ心に蓋をしているか。ジキルとハイドのよう。
イエスのためならなんだってやりたい、本心。
その裏側にイエスのようにできるわけがない、やりたくない心がある。
愛するよりも愛されたい思い。
イエスのために頑張ったから、自分の願いを叶えて欲しいという思い。
自分は忘れ物が多い。先の予定を考えられない。スケジュール管理ができない。ダブルブッキングが多い。
弱さが多く、本当に変わりたいが変われない。
発達しきっていない特性が邪魔をしている。
それを認め切れない。
今まで、このようなもう一人の自分を無視してきた。
そうでないと、足を引っ張られる、動けない。不信仰になる。
私はこんな自分が嫌いだった。
人に見せられない姿。褒められたものではない。
私はイエスの光に当たっている部分だけで生きていきたい。
私の背中には大きく影が伸びている。子供のような自分。
影のような自分を振り返り、向き合う。
どんな自分をも神様が愛してくれることを信じない、不信の罪。
知っていたが、受け入れて認めることが出来なかった。
受け入れた後のことを知らなかった。
受け入れることは、イエスの光を見つけること。
もう一人の自分、恥ではない。
神様が私を作ってくださった。
闇ではない。認めて工夫し、神様のためにどう用いてくれるかを信じること。
オリンピックがクライマックスになっている。
お盆明けにパラリンピック。楽しみになっている。
イエスは「私がある」ことを信じないなら、罪の中に死ぬことになると言った。
イエスがいてくださるから、私たちは光の中にいられる。
イザヤ45:3
最近、とても励まされている聖句。
神様は私たちに暗闇に置かれた宝、託された宝を置いてくださった。
罪と向き合うこと、ネガティブではない。
イエスは光だから、神様を賛美する機会になる。
闇に向き合うこと、一緒に取り組む兄弟がいる。
一緒に闇に必死にダイブしている。
彼は自分がいかに情緒剥奪か知り、打ちひしがれている。
でも、イエスの愛を大事にすることで作り変えられている。
神様はいる。
イエスは救い主。
実感している。
皆さんは罪の傾向はありますか?
イエスは世の光。
闇がどんなに深くても、イエスがいてくださる。
光の道を共に歩んでいきましょう。