『ダビデシリーズ:神とダビデの絆』
スライドはこちらから→20210530 ダビデシリーズ 神とダビデの絆
ダビデシリーズには次のテーマがある。
View of God 神を正しく見る
View of Self 自分を正しく見る
View of Others 他人を正しく見る
この順番が大事なので、覚えておいてください。
1サムエル24:1-3
エン・ゲティという土地、洞窟があり隠れるのに最適な場所だった。
しかし、サウルは3000人もの兵を連れてきた。
彼らの目的はダビデを殺すため。
想像してください。自分を殺そうとする3000人の兵に追われ、洞窟に逃げ込んだ。
出来ることは?祈るしかできないと思う。
ダビデはそのような場面に直面。この時の心境が詩編に残っている。
詩編57:1-6
この詩編を歌った時、このような表現を使っている。
・災い
・踏みにじるものの嘲り
・獅子の中に、火を吐く人の子らの中に伏している
・彼らの歯は槍のよう、矢のよう
・舌は剣のように鋭い
このような状況でもダビデは神様のみを頼った。
ポイント1:主は避けどころ
ダビデの「魂の避けどころは翼の陰」というのは比喩表現。
ダビデがどのように神様を見ていたかがわかる。
小さな鳥、雛鳥は外敵から自分たちを守れない。
安全な場所は親鳥の真下、羽の陰。
親鳥は自分たちを守ってくれると知っているので、雛鳥は安心できる。
子育てを終える時、親鳥の羽根はボロボロになっている。
人間なら腕。親鳥の羽のような愛情、暖かさがある。
いつも守ってくれる。庇ってくれる。そう感じられる。
おそらくダビデにとって、神様の翼の陰はそういう場所。
ダビデは神様に感謝を献げている。
周りの人たちから来るものではない。神様のみからしか来ない。
それがダビデと神様の絆。
私たちにも様々な困難があると思う。
仕事ではなく地位でもパフォーマンスでもなく、家族やコミュニティですら本当の避けどころにならない。
神様の十字架しかない。
Living Lifeシリーズでの関根拓海くんのシェア、小学校時代にバスケ部でいじめられたことを話してくれた。
彼は中学生になっても、自分はダメなんだという思いが消えなかった。
聖書勉強中も自分はできない、なぜバスケでいじめが起きたのか、神様は守ってくれなかったのか。
相手は悔い改めないのになぜ自分だけ悔い改めないといけないのか?
自己憐憫が強く出てきた。
でも、聖書勉強で自分の見方が間違っていたことに気づいた。
家族、教会の友達が自分を助けてくれた。
神様は自分の傷をも用いてくれた。
自己憐憫を抜け出し、どんな時も神様が守ってくれるというアイデンティティができた。
今日、最後のバスケの試合だった。
小学生の時、彼をいじめた子供たちがいる強豪校が相手。
水曜デボの後、大丈夫?と聞いたら「神様が守ってくださるから大丈夫」と話してくれた。
神様が拓海くんの避けどころになってくれた。
「神様を正しく見る」
あなたはどのように神様を見ていますか?
ダビデは危機の中で、何度も神様が守ってくださった経験をした。
危機は最大のチャンス。
イエスにとって最大の危機は、十字架。
弟子たちに裏切られ、孤独な戦いだった。
親鳥以上にボロボロになっていたと思う。
それでもイエスは私たちの避けどころとなってくださった。
あなたの避けどころとなるべき人が、傷つけてきているかもしれない。
でも、主こそあなたの避けどころ。
神様はいつでも翼の陰で守ってくださる。
ポイント2:主は正しい裁き手
1サムエル24:4-8
偶然、エン・ゲティの数多い洞窟の中でサウルはダビデのいる洞窟へやってきた。
そしてサウルはダビデに気づかずに休み、彼の生死はダビデに委ねられた。
ダビデにとって、サウルを殺すことの意味は?
・長年の苦しみからの解放
・公平な報復
・周りからの支持
・王権の継承
それでもダビデはサウルは殺さず、服の裾を切っただけだった。
彼には二つの思いがあった。
・なぜ自分はサウルを殺さない?
・サウルの服の裾(権威の象徴)を切ってしまうなんて!
自己中心に彼は砕かれた。
ダビデにとって、報復はフェア。
周りにいる仲間も、サウルを殺すよう説得してきた。
1サムエル24:16
神様は正しい裁き手。
ダビデは「神様を正しく見ていた」。
だから「自分を正しく見られた」。
1サムエル24:15
自分のことを「死んだ犬、1匹の蚤」と表現している。
ダビデは自らが神様から選ばれた王と分かっている。
しかし、神様と比較したら死んだ犬、1匹の蚤、貧しいものに過ぎない。
そして神様が見るように、「他人を正しく見る」ことができた。
1サムエル24:7
神様の視点でサウルを見ていることがわかる。
1サムエル24:9
人間的な考え、見方をしたらサウルは主君ではなく、殺人鬼、屑。
見下してやりたい誘惑があったと思う。
神様が見るようにサウルを見ていた。
主に祝福されている方、愛されている方と見た。
だから、ダビデを神様は御心に叶った者と見ている。
十字架上のイエスと同じ。
ルカ24:34
イエスには罪が一つも無かった。
しかし神様と同じ心を持って、十字架上で彼らを赦した。
今、私たちの人生にどのようなサウルが与えられていますか?
憐れみを持てない、赦せない思いで相手を責め続けていませんか?
相手が問題ではなく、自分の罪に苦しむ。
自分の罪に捉われるではなく、神様を見ましょう。
1ペトロ2:23-24
神様が正しく裁かれる方なので、サウルを任せた。
投げやり、責任放棄ではない。
英語だと「信頼して任せる」という言葉になっている。
神様は信頼に値する方。
私たちは神様に許された罪人。
どんなサウルのような人が現れても、ダビデのように自分と相手を見ることが出来る。
ぜひ、主を信頼しましょう。
ダビデのように正しく自分と相手を見ましょう。