子供たちの将来の夢、可愛いし励まされる。
子供達が自分の夢を語る時、将来なると信じて語る。
自分が望めばなれる、そう信じている。
それは子供だからかもしれない。
私たちは子供のような心で信じていますか?
マルコ9:23「信じる者には何でも出来る」、今年の教会のテーマ聖句。
信じる者には全てができる。大きな約束。
信じることに臆病になった大人に必要なもの。
信じることを深めていきたい。
マタイ9:27-31
この聖句の背景を説明したい。
この頃イエスは、イスラエルの各地を回りながら福音を伝え、病を癒していた。
群衆が常について来ていた。超有名人。
そこに2人の盲人が来た。盲人とは、目が見えない人のこと。
盲人が目が見えるようになる奇跡、イエスは何度か行っている。
この箇所で書かれている「2人の盲人を癒す奇跡」は、他の福音書には出てこない。
盲人は叫ぶ。イエスの周りは人だらけ。女性を癒したばかり。
彼らがイエスに訴えるには、叫ぶしかなかった。
当時、病人や身体に障害がある人は罪人扱いされていた。
罪があるからそのような状態になっているからだと。
今の時代の私たちも、「良いことをすると自分に帰ってくる」、「悪いことをするとその報いがある」と思ってしまう文化がある。
イエスは、家に入る途中で盲人に会う。
盲人は情熱を持ってイエスについていく。家にまで入る。
自分が罪人だと信じていたら、どうしてここまで出来るのか?とハッとさせられる。
イエスは盲人に「信じるか」と聞き、癒した。
この聖句にハッとさせられる。自分の心を見られているような。
考えてみて欲しい質問があります。
今、イエスに会ったら何をして貰いたいですか?
3つ考えてみてください。
真:
- 今年、シャイニングで8人のバプテスマ、再献身
- 聖書をテーマにした舞台を行う
- 肉の家族の救いが起きる
ポイント1:イエスになら出来ると信じる
イエスは2人に尋ねた。
「出来ると信じるか」「はい、主よ」
盲人たちは2つ返事で答えている。迷いがない。
リビングバイブルでは、「はいもちろんです」となっている。子供のよう。
自分の場合、イエスの質問は意地悪な質問に変換される。
「本当に信じているか?」と試すような。
私は救われる前は、子供が嫌いだった。
当時、子供が何を考えているか分からず、イライラさせられていた。
子供の夢を聞いても「人生甘くない!」と言いたくなる。
イエスの質問にも「人生甘くない!」と跳ね返って聞こえてくる。
母が言うには、自分は小さい時にレゴが好きだった。本を読むのも好きだった。
成績、三兄弟で一番悪かった。スポーツも。
高校三年生の時、ミュージカルの世界に飛び込む決心をした。
しかし、声楽科を3回落ちた。
その後、何とか就職出来たが6年半で2回会社をクビになった。
そのような私も、聖書に出会って癒された。
でも、失敗スキーマの声は消えたわけではない。
イエスは群衆の中で盲人に尋ねなかった。
家の中に入って、自分の声が聞こえるところで、個人的に尋ねた。
イエスはその気になれば全てを出来る権能を授かっている。
でも、質問をせずには癒さなかった。盲人が信じているかが重要だったから。
イエスには、「あなたが信じているかどうかが重要だ」、という思いがある。
イエスは神様と同じものでありながら、一人一人の気持ちに関心がある。
弟子の皆さん、祈って来て叶ったものがいくつありますか?
数えきれないぐらいあると思う。
家に帰った時、この聖句を改めて思い直してみてください。
過去の経験、不安からイエスを信じられなかったら悔い改めましょう。
近い兄弟姉妹にも話を聞いて貰いましょう。
ポイント2:具体的に信じる
イエスは「あなた方の信じている通りになるように」と話した。
盲人たちが望んでいることは、具体的でわかりやすかった。
先ほどの3つの願いの中から1つを選び、五感を使って想像してください。
自分の場合、「今年、シャイニングで8人のバプテスマ、再献身」について想像してみる。
今年の覚え年会で、何人もの兄弟姉妹が壇上に上がっている。心から満たされて、神様に心から感謝している。
目をつぶって想像してみてください。
自分の回りには何が見えますか?
色はどうですか?モノクロですか?
色彩豊かなものがありますか?
自分に触れているものはありますか?
冬ですか?夏ですか?
どんな香りがしますか?
口の中は乾いていますか?
潤っていますか?
どんな音が聞こえてきますか?
どんな風に響いていますか?
その思いを共有できる人はいますか?
ゆっくり目を開けてみてください。
これは、演劇のワークショップで使われるもの。
俳優が過去の記憶を遡る時、未来のことを思う時に使う。
最初の質問、イエスに出来ると信じる。
叶ったらどうなるかも含めて考えていきましょう。
もしかしたら、会社での仕事の方が綿密に考えているかもしれない。
これが出来たらこうする、などのプロセスを。
昨年、何でもやる決心をした。
武士さんの話に倣い、昨年の5月28日に青葉達也くんがバプテスマを受ける合成写真を作った。
当時、まだちょっと仲良くなったぐらい。聖書勉強も始まっていない。でも、半年後に彼は救われた。
彼が聖書勉強中、変わっていく、果敢に信仰に飛び込む態度を見て励まされた。
仕えることで模範になっている。
あの写真、作って良かった。
思い通りにならないこともある。
でも、達也くんを見る度に、神様は祈った通りにしてくれる、と思い出す。
昨年11月、大阪で伝道した関西学院大学の学生が三好家の食事会に来てくれた。
先週のSNS礼拝にもたくさんの友人が来てくれた。
神様は、信じた者に答えて下さる方。
グッドニュースを具体的に信じてみよう、と思った時に何を信じますか?
私たちに何が出来るでしょうか?
改めてイエスを見ましょう。
自分でも恥ずかしい、避けたいと思うところに神様が働いてくれる。
ポイント3:イエスの信じたものを信じる
マタイ9:30-31
盲人たちはイエスの教えを言い広めた。
話してはならないとイエスが言ったのに。
なぜイエスは話してはならないと言った?
イエスは、自分が最終的に十字架にかかることを知っていた。
弟子がイエスのことを受け継いでくれることを期待していた。
だから、現時点でこれ以上人が集まること、軍事的なリーダーに祭り上げられるのを防ぎたかったのでは?
でも、盲人たちはイエスのことを言い広める。
それは、人生の中で最も嬉しかったから。
難しい箇所。盲人たちは、喜びに溢れてイエスを言い広めた。
もし自分だったらどうするか?感動して、同じことをしていたと思う。
イエスに直接触れて貰って癒された。
そこから来る喜び、イエスの命令でも黙っていられなかった。
自分が彼らと同じなら、黙っていられますか?
私たちは彼らほどの喜び、感動を持っていますか?
イエスの素晴らしさに感動して宣べ伝えていますか?
先日、バプテスマを受けたティーンの女の子が「イエスのことを友達に自慢したい」と言っていた。忘れられない言葉。
皆さん、イエスの感動が薄まっていませんか?
私たちは、彼らのようにイエスに癒されることが出来る。
私たちはこの盲人たちのように、イエスの質問に「はい信じます」と言えますか?
御心なのか、自分の思いなのか、見極めるのは信仰が必要。
聖書さえも自分の思いのために利用したい誘惑がある。
昨年2月からパートタイマーとして教会で働かせて頂いている。
一番の闘いは、「自分に神様が働くのか」不信との闘い。
今年は疑うのではなく、イエスが信じているものを信じたい。
今年、皆さんとともにマルコ9:23のテーマ聖句を深めていきたい。