いよいよジュビリーが今度の週末となりました。テーマは、『信じる者には何でも出来る。』ゲストスピーカーが3組も来ます。
参加できない人もいると思いますが、どこにいても神様とのジュビリーを持つ時間にしてほしいです。
ルカ17:11-19
イエスが重い皮膚病の人を10人癒す場面。
今日は、私たちの信仰について話したい。
イエスがエルサレムに戻る途中、思い皮膚病を患った10人の人がイエスに助けを求めて癒された話。
1人だけが戻って来て、残りの9人は来なかった。
その人はサマリア人だった。
「あなたの信仰があなたを救った。」
この戻ってきたサマリア人は、最高の言葉をイエスからもらった。
今日あなたの信仰はどうでしょう?
2つのポイントから話します。
ポイント1:イエスは来てくれる
重い皮膚病はハンセン病、ツァラトとも呼ばれた。
ライという菌が入り、身体に酷いただれが出来る。当時は、治療法がないので、かかった人は社会からも隔離されていた。
彼らは、人との繋がりがない。
もし街を歩くときには「自分は汚れている。」と叫びながら歩かないといけなかった。
精神的にも肉体的にも希望のない状況。
イエスにも遠くから叫んだ。
イエスは、彼らに声をかけた。
「祭司のところに見せに行きなさい。」
それは、「あなたを癒します」という意味。
私は、イエスは近づいていったと思う。イエスが叫んだとは書いていない。言われたとある。
彼らからは近づかなかったが、イエスから近づいてくださった。
イエスはそういう方。
個人的な関係を結びたいと近づいてくださる。
私は、これこそが信仰の始まりだと思う。
イエスが来てくれることを、今日私たちは信じているでしょうか?
この病気は、日本においても差別という悲しい歴史がある。私たちがこの病気を理解して同じ思いになるのは難しい。
でも、私たちも本当の自分は罪だらけ。
自分は汚れている。社会から孤立している。痛みがある。
そんな状況かもしれない。
遠くから「癒されたい。」と叫ぶかもしれない。
イエスは近づいて、声をかけてくれる。
イエスは私たちの重い皮膚病を癒してくれる。
私たちを神様の奇跡のために用いてくださる。
先週、私の母がバプテスマを受けた。びっくりした。多くの人により、救われて、弟子としてジュビリーに参加する。
6年前、仙台に教会が出来るとは思っていなかった。 震災後、1年経って教会が出来た。
そのあと父親が救われた。自分と似ているところがあるので、救われると思っていた。
でも、母親については分からなかった。 むしろ教会を避けている感じがあった。
でも1年前、母親は「いつになってもいいから、聖書を勉強したい。」と言って来た。今でも謎。
父親を亡くして育った母親は、天のお父さんを信じるのは難しかった。
母親の手で育てられ貧しかったので、そんなにいい教育を受けていない。
聖書を読むことや、心を見るのが苦手。自信がなかった。
でもコツコツ聖書を読んだ。イエスは来てくださった。
私の今の確信は、全ての人に神様が必要ということ
ポイント2:イエスの元に行くこと
1人の人だけが戻って来た。イエスに信仰を認められたのが、この人だけだった。
神様に期待されているのは、神様に戻ること。
「あなたの信仰があなたを救った。」
この人の信仰はどういうものだったか?
情報が少ないが、
- 声が大きかった
- イエスに感謝していた
と言える。
イエスの元に行くのは、感謝しているので出来る。
感謝とは何か?
多くの偉人、ビジネスマンは、「感謝することは成功の秘訣」と言っている。
感謝の語源を調べると、どんなに調べても「感謝する。」しか書いていない。
聖書では、はじめに神様に感謝することは、神様を賛美することとある。
それ以上の情報がない。つまり、感謝することは根本的なこと。歌うこと、踊ることと一緒。
人間が自然にする行為。実は祈りも一緒。どの文化でも同じ。
自然に心から出て来るのが感謝。
親として子供に教えるけど、心からの時には大人の何倍も出てくる。
プレッシャーや難しいときにすると、心が落ち着き、喜べる。
感謝は、私たちの清い思いから出る。
でも、プレッシャーや何かがあると、感謝出来ない、心が清くない時がある。
そうして、神様に感謝出来ないで無駄にしている時が多々ある。
妻にも、そんなことがないか聞いてみた。すると逆に「雄大さんはどんなときに感謝出来るの?」と聞かれてしまった。
「う~ん。そうだな。無理に感謝はしたくない。本当に心からじゃないとね。」
妻には、
「ふーん。曲がっているね。」
と言われてしまった。。。
でも、そのとおりかもしれないと思う。
自分には、純粋さが欠けていると多々思う。
この戻ってきた人は、純粋に喜んで感謝していたと思う。
今日、私たちは純粋でしょうか?
心の清い人は幸い。神を見るから。
イエスは、彼の信仰を祝福するだけでなく、言いたいことがあった。
9人はどこに行ったのかと聞いた。
「この外国人しか戻って来なかったのか?」
挑発的にも思えるイエスの言葉。
ユダヤ人は、このサマリア人と交際しなかった。ユダヤ人は神に選ばれた、サマリア人は妥協して混血になった。
でも、戻って来たのは、サマリア人。ユダヤ人を強烈に皮肉っている。
汚れていて妥協していたとしても、純粋な心があれば信仰を神様に認められるということ。
私は、居心地悪い言葉は好きではない。
この聖句はチクチクする。なぜ?
自分が感謝していないとわかるから。
でもそのときこそチャンス。
イエスは、純粋な心を持てないで神様の力を見逃すのでなく、癒したかった。
イエスは、本当は10人全員に「あなたの信仰があなたを救った。」と言いたかった。
外国の教会で、日本人の人を愛してくれる人が多くて、連絡をもらう。
特にオーストラリアの教会。
ロングビーチの教会リーダーから、先日連絡があった。日本人の若者と聖書勉強している。
「もう無理だ。助けて。彼は日本人で文化が違うからか、心が硬すぎる!」
それから、スカイプしている。キャンパスで勉強している。
彼の心は硬かった。
「世の中には、キリスト教とか仏教とかイスラム教とかありますけど、宗教は何でしょう?」
「神様は本当に与えてくれますか?」
「神様いるならこの世の中はどう説明つきますか?」
よく日本人が聞いてくる質問。
純粋じゃない心。
「神様は本当に与えてくれるか?」について、「求めたら与えられる。」と答えた。
そうしたら、それから聖書を一生懸命に求め始めた。今では純粋に神様を求めている。
拓人君のシェアにあった大学の友人も、ずっと日本で勉強していたが心が硬かった。
先日、拓人君とインドネシアへ行って、弟子たちの溢れる愛を受け、「見ず知らずの日本人に対してどうしてここまで?これが神様の愛なのですね。」と柔らかくなって行った。
今では、愛について涙を流す。
彼は、インドネシアに行って、大声で帰って来たと思う。
バプテスマを受けたいと言っている。
今日、私たちがイエスの元に行くことをしましょう。
神様との共同作業があったとき、奇跡が起きる。
近づいてくださるイエスの元へ自分が近づいて、神様との奇跡によって前進していきましょう。
ジュビリーも素晴らしいものにしていきましょう。