東京の教会の皆さん、仙台教会に3家族を送ってくださり感謝しています。
仙台で神様がたくさん働いていて、感謝です。
ヨハネ2:1-11
カナの婚礼。当時の婚礼は、今よりも1大イベントだった。
1週間続けて婚礼をした。花婿がすべて費用を持つ。
そこで、ぶどう酒が足りなくなってしまった。あり得ない計算違い。
結婚式は、ハプニングがつきもの。
以前、ある結婚式で花婿が式前にとても緊張していた。
彼を励まそうと、ある兄弟が第1ヨハネ4:18「愛には恐れがない」という聖句をシェアしようとした。
間違えて、ヨハネ4:18をシェアしてしまった。。。
(「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」という内容)
日々生活していると、朝早く起きて、子供の世話、昼間は仕事、夜また子供たちを迎えに行って疲れる。
波に乗れていい日もあれば、溺れてしまい、塩水がしょっぱい日もあるのでは。
ルーズベルト大統領の「競技場に立つ人」というスピーチ:
「批判する人に価値はない。
観客席から行動した人間を指して、どうすればよかったかとか、どんなふうに躓き失敗したのかとか、指摘するだけの人に価値はない。
埃と血と汗にまみれて努力した人、競技場に立つ人に名誉は与えられるのだ。
競技場に立つ人はうまくいけば勝利を得るし、失敗すれば敗北を味わう。
しかし失敗し敗北したとしても、それに果敢に挑んだ結果なのだ。」
誰がぶどう酒を足りない状況にしたのか?
責任者を見つける、飲み過ぎの人をたしなめるなど、そういうこともできたかもしれない。
イエスの母マリアは、世話役ではなかった。
でも真っ先にイエスに助けを求めた。
もしかしたら、少しおせっかいだったかもしれない。
イエスは、その問題を聞いた。マリアは、自分が出来ることをしようと決心した。何となく、そのような状況が耳に入ったことに対して。
皆さんだったら、それをどのように反応するでしょうか?
聞いていないふりをしますか?
「私がなんとかする!」と前に出ますか?
結果的には奇跡が起きた。
それは、マリアの一言から始まった。
イエスは「お母さん、困りましたね。私が何とかしましょう。」と期待したものではなかった。
「わたしになんの関わりがあるのか」という反応だった。
マリアは傷ついたかもしれない。 でも、召使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と伝えた。
このように、気まずい状況に、実は神様が働く奇跡があるのではないでしょうか?
みたくない状況が、職場、家族の中であるかもしれない。
イエスがすぐ反応してくれなくても、マリアは落胆しなかった。愛をもって語るべき。直面したくない場所こそ、あなたの競技場。
この日、2番目に注目したい人たちは召使い。
彼らはぶどう酒を運んでいたので、状況を把握していた。清めに使う水を運ぶようにと、信じられないことを言われた。
720mlのワインボトルなら1000本分だった!
水を汲むだけで大変。 従順さが求められる。
その後、水をぶどう酒としてもって行くようにと言われた。勇気が要ったと思う。
例えば、暑い眠れない夜に妻が冷たいコーラを飲みたいと言ったとします。
息子が飲んだのか、コーラは冷蔵庫にない。
夫はある秘策を考える。グラスに氷を詰めて、醤油をグラスに注ぐ。それらしく見える。
コップを見つめて祈る。
その醤油のグラスを妻に差出せますか?
それくらい勇気が要ったと思う。
いつ自分たちが汲んだ水がワインになったのかわからなかった。でも彼らは忠実に従った。
マリアがきっかけを作り、自分の理性ではなく、イエスに従った。
彼らは、名もない召使い。彼らを通して、奇跡が起きた。
彼らに奇跡を起こす力はなかった。
けれども彼らは、従順だった結果奇跡のぶどう酒を客たちに届ける栄誉が与えられた。
今の時代にも、人の理性を超えて従順に従う者を神様が求めているのではないでしょうか。
イエスに信頼し、従うこと。
時々私たちは、自分の力でやろうとする。奇跡を起こせないのに。
私たちは、奇跡は自分では起こせないが、神様に従えば人々の渇きを癒し、喜ばれるものとして神様に使われる。
水を水がめに入れるには、地味な作業。日々の聖句を読むのに似ている。
毎日聖句を読んだとしても、急に何か変わるわけではないし、問題は急に無くならない。
でもイエスが、水を溜めた時に、それを素晴らしいぶどう酒に変えてくださる。
清めの水で心を満たすのか、世の中の物で心を満たすのか、選択出来る。
イエスの前では全ての物を希望へと変えることが出来る。
たくさん希望を求めて、何も得られない人々もいる。
私たちは、彼らに水を与えて満たすために呼ばれている。
私たちはクリスチャンが1%しかいない日本、宣教のエベレストと呼ばれる日本で、険しい山を登っている。最後にはどうなるかわからない。
私たちに出来ることは、埃と汗にまみれても、競技場で戦うこと。
水がめを水で満たすように言われて、従順にイエスに従うこと。
人を批判する人に価値はない。
汗と血、間違いがあっても、ことを成し遂げるために励む人たちに対し、神様は「よくやった、良い僕だ」といつか言ってくださる。
神様は、私たちに競技場に立つことを期待してくださっている。
失敗、孤独があっても、マリアのようにイエスに助けを求めましょう。
召使いのように、理解を超える場所に行くように言われても忠実に従いましょう。