盲人がイエスに目を見えるようにしてもらったように、私たちも救いによって、霊的な目を見えるようにしてもらった。
しかし、同時に私たちは、今でも罪人であり、霊的な真実の多くが実は見えていない者である。
だから、自分が霊的盲人であることを認め、神様に頼る必要がある。
いつでも、イエス・キリストに霊的に見えるようにしてもらう必要がある。
今日は、冒頭、短い動画を見てもらいます。
生まれつき目の見えなかった赤ちゃんが、特殊な眼鏡をつけて、初めて親の顔を見ることが出来た瞬間の動画です。
私たちが神様と出会う時、もしかしたらこのようなものになるかもしれません。
私たちが顔と顔をつきあわせて、神様を見るとき、この赤ちゃんのように笑顔になるかもしれません。
ヨハネ9:35-41
この背景は、ある生まれつきの盲人にイエスが近づいて行って、彼は見えるようになったというものです。
ですが、安息日に彼が癒されて、見えるようになったことが大問題となり、彼はユダヤ人の社会から追放されてしまいます。
見えるということは、大きな喜びです。
先ほどの赤ちゃんと親にとっては当たり前のことではありませんでした。
福音書には病気や障害を抱えた多くの人が出てきます。
特に、盲人が多く登場します。
他の盲人と違って、この箇所の盲人は、イエスご自身が癒されました。
ところがこれが問題となり、彼の両親ですら社会から追放されないために保身になり、彼にとっては裏切りになってしまいます。
同じように、霊的な目が見えるようになって、同時に悲しいことが起こるようなことがあります。
クリスチャンになって、自分は喜んでいるが、周りの人を悲しませることがあります。
自分は神様を信じているのに、親から理解されず迫害されるようなことです。
多くの信じない人は、信じられないのでなく、信じたくないという人たちです。
霊的な価値観を持ってこの世を生きることは、生きづらいことがあります。
世を愛して中途半端になることがあります。
それは、霊的な目を見えなくさせます。
自然にしていると、私たちは霊的に盲目になります。
ですから、絶えず、霊的な見方をする必要があります。
安全な慣れた環境から出ることは、困難な場合があります。信仰によって生きたとき、神様に頼ることになります。
ある人たちに取っては、新しい関係はチャレンジではないかもしれません。
むしろ、ずっとある関係に向き合うことのほうがむずかしいかもしれません。
盲人は、泥を塗って、シロアムの池に行って洗いなさいと言われ、従いました。目の見えない人にとっては、それは簡単ではなかったと思います。
常識と理性では理解できないときに、罪人である私たちは、拒絶します。
自分の好み、感覚、経験に支配されることが多いのではないでしょうか?
それらに支配され、従っていると、神様を知るという経験を逃してしまいます。
この世には障害のあるひとたちが居ます。
私たちは「障害」と聞いてどんなイメージを持ちますか?
発達障害、精神障害。。。
聖書には、障害という言葉は見当たりません。
障害というのは、実は私たちの心にあるものです。
私の心には、いくつもの障害と思われるものがあります。それは、罪と言えるものです。
かつて、ダウン症の赤ちゃんを養子にと言われたときに、不安でした。仕事を続けられるのか、幾らお金がかかるのか?
心臓に病気がある子が多い。手術に費用がたくさんかかったらどうしよう。自分より先にその子が亡くなったら、自分は耐えられるのだろうか?
かつて5回の流産死産を経験した私たちは、とても辛い思いをしました。他の子供たちの誕生や成長すら喜べない自分がいました。
ダウン症に対して、無知と偏見がありました。
やっぱり、健常者の子供がいい。
日本の教会には、ダウン症の子はいない。適切なアドバイスは受けられない。。。
神様の思いではなく、自分の思いや罪で考えていました。
多くの人に助けられて、神様の思いを取れたのは、彼女のことを一番に考えられたのは良い決断でした。
みなさんは、私の親バカ発言によって、その後どのように私が変えられたか、幸せかを知っていると思います。
4/9で娘が来てちょうど1年になります。
鼻からチューブでミルクを入れないと栄養が摂れないこと、浣腸しないと排泄できないことは、最初ショックでした。
娘は、今年の4月から保育園に入ります。それもまた奇跡です。
娘のおかげで、障害について、覚悟について、愛することについて多くを学びました。
彼女から学んだこと。
鼻にチューブを週に1回しなければいけない。
自分で取ってしまう場合、週に2、3回替える。
いつも泣き叫んで痛んでも、その後でニコニコしている。
成長がゆっくり。でも彼女のベスト。
人と比べることに何の意味もないと知った。
障害は人のレッテルであり、神様の価値観ではないということ。
昨日、TBSで盲聾の子供の特集がありました。
盲聾の人は、目が見えず、耳が聞こえません。盲聾は過酷。
彼らの学校の先生や、親たちが耳を塞いで目隠しをする数十分の体験をしました。
あるお母さんは、マスクを取った後に号泣していました。
親であっても、子供の気持ちがわかってないのだという涙でした。
霊的に盲目。私たちは他の人や自分のことがわかっていないということ。
それは、恥ずかしいことでしょうか?
そのままの姿で、イエスキリストの前に出る必要があります。
シロアム=遣わされた者の意味
イエスキリストの元に行って、目を洗うこと、
霊的に見えるようにしてもらうこと。
私たちはどんなに経験を積んでわかったつもりでも、わかっていないのです。ですが、それがあるべき姿です。
ヨハネ9:32
ヨハネ9章の真髄の聖句と言われています。
現代訳では、こうなっています。
イエスは言われた。
「わたしは裁きのためにこの世にこの世に来ました。この裁きというのは、区別をすることです。霊が盲目であった人は見えるようになり、なんでも見えると思っている人は、実は霊が盲目なのだということを知ってもらうためです。」
パリサイ派の中で、そこにいた人たちがこのことを聞いて、イエスに尋ねた。
「それでは、私たちも盲目だとおっしゃるのですか?」
イエスは答えて言われた。
「もしあなたがたの霊が盲目であると自覚していたら、赦されたでしょう。しかし、あなたがたはなんでも見えると自負しているではありませんか。それが罪なのです。」
私たちが本当に自分は盲目であると認めていたら、それは態度でわかります。
私たちは盲目なら、他の人の助けがないと歩けません。
私たちは一番自分が見えていません。
自分が盲目だと認めていないなら、他の人の言葉に耳を傾けません。
今日、私たちはどうでしょうか?
自分の心、自分の霊的な状態をわかっていると思う人ほど、神様の前で愚かな者です。
わからないので教えてくださいという人を神様は祝福してくださいます。
ジョン・ニュートン
アメージンググレースの作曲家。
かつて彼は奴隷商人だった。命に関わることがあり、神様に出会って、のちに牧師になった。
「驚くべき恵み。
私のように悲惨な者を救ってくださった。
かつては迷ったが今は見つけられ、
かつては盲目であったが、今は見える。」
クリスチャンなら、救われる時にそれを経験しています。では、最近はどうですか。
自分の罪を自覚するほど、罪と向き合うほど、神様の恵みが増します。
これほど素晴らしいものなのに、なぜ多くの人はそれをしないのでしょうか。
それは、信仰がないからです。
「実は、信じていない。」
心に深くある不信仰を理解することが、
最も大切な悔い改めの一歩かもしれません。
恐れに負けず、自分の霊的な戦いをしてほしい、礼拝後、そういった深い会話をしてみてください。
見えない者だから、私たちは、イエスが必要。兄弟姉妹との交わりが必要です。そして、新たな神様を一緒に見ていきましょう。