『主キリスト・イエスを知るあまりの素晴らしさ』
スライドはこちら→20210131 フィリピシリーズ3 主キリストイエスを知るあまりの素晴らしさ
フィリピ3:7-11
3章の中で「喜びなさい。」というのはこの1節しか出てこない。
この聖句をどう思いますか?
「パウロ、熱い。めちゃくちゃ励まされる!」と思うか、「自分はパウロのような思いになれない。」と思うか。
8節、パウロにとってはキリストを知ることがあまりに素晴らしかったので、
「もう他には何もいらない。これまでの人生のことはどうでもいい。」という思いを書いている。
わたしはこの言葉を読むたびに圧倒される。
同時に強い憧れを感じる。
このように生きることができたら、弟子としての人生がどれほど素晴らしいでしょうか。
①キリストを知る
知る=ギリシャ語でグノーシス、ヘブライ語ではヤダ
この言葉は知識として知るという意味ではなく、親密さの意味も持つ。
知識ではなく、キリストを親密に知ること、素晴らしさを味わうこと。
今日、自分の大事にしている価値観、固執している生き方に対し、キリストをもっともっと「知る」、その素晴らしさを覚えたい。
現実的には、キリストの素晴らしさを知りたいと思いながら、なかなかそれができない。
フィリピの教会にはキリストを親密に知っていくことへの妨げが幾つもあった。
フィリピ3:2偽教師たちがいた。間違った教えを広めていた。
割礼がなければ救われない、律法を守らなければ救われないとして人々を惑わせていた。
わたしたちはキリストの正しい教えを知っていく必要がある。
間違ったメッセージに惑わされることがあるのではないか。
たとえば、自分は弟子として素晴らしい弟子でなければならない。
自分は、神様との関係は不十分だ。そのような声。
自分の内から、または他の人から聞こえる。
このような声を聞くと、キリストの素晴らしさを味わえなくなる。
誰が間違ったメッセージを伝えてくるか?
この声はサタンか?自分自身か?
どのような不健全な声があるのか?
そこから出てくる罪ではなく、キリストの声を聞く必要がある。
ここで、キャンパスミニストリーに仕えてくださっている佐々木美和さんからのシェアがあります。
美和さんのシェア:
救いをみたいと願っていた2020年。
服従の罪から、正しいことを人に伝えられない罪があった。
それによって周りに悪影響を及ぼした。
キャンパスの女性の救いはなく、それどころか離れてしまった姉妹がいた。
そして、自分に周りからアドバイスを求める心がなかった。
ワーカーとして役立つのではなく、良くない影響を与えていることから、恥ずかしいと思い、圧倒された。
思い描いていない結果から、自分のクリスチャン人生は何だったのか、と落ち込んだ。
自分フォーカスになり、御言葉よりも自分のだめさを見ていた。
フィリピの3章ではパウロは、キリストの素晴らしさを知ることで、自分の人生のほかのものは一切を無価値だと言っている。
わたしも一度自分の思いをわきにおいて、キリストにフォーカスすることを決心した。
イエスは罪を犯さなかったが、わたしたちのために十字架にかかってくださった。
イエスは復活され、自分もその復活に預かっている。
ただ無条件に愛されていることを実感する。
十字架と復活をおぼえることで、イエスの素晴らしさを体感した。
2021年は、ネガティブな思いにフォーカスするのではなく、イエスを知ることのあまりの素晴らしさにフォーカスしたい。
その素晴らしさを多くの人々に伝えたい。
そしてそれを楽しみにしている。
(シェア終わり)
大地さん説教続き:
フィリピ3:8をもう一度読みましょう。
この聖句は、対比表現を使っている。
キリストを知ることのあまりの素晴らしさと、キリストを知る前に素晴らしいと誇りに思っていたことを塵芥とみなしていること。
パウロが以前誇りに思っていたことは、
・割礼を受けたこと
・イスラエルの民であり、べニアミン民族出身
・ヘブライ人の中のヘブライ人
・熱心なファリサイ派、熱心
生まれ、両親、学歴、熱心さなどを誇っていた。
現代において、一般的に持っていたら誇りに思うものは?
学歴、お金、家柄、職業、大きなマイホーム、かっこいい車、素敵なパートナー・・・。
わたしが弟子になる以前に思っていたのは、
キャリアとしてラグビーのメディカルトレーナーになる、トップチーム、
日本代表の空手で勝ち続けること、
世界大会で優勝すること、
暖かい家庭、
かっこいい高級車に乗ること。
一般的に人々が誇りに思うことを塵芥に思うことはすごい。
大切なことは、キリストを知るあまりの素晴らしさに比べたら、これらのことは塵芥に思えるということ。
弟子になる前に、わたしは空手で勝ち続けることが素晴らしい人生だと特に思っていた。
しかし、弟子になり、それが間違っているとわかった。
初めてキリストを知ったとき、もう競争しなくてよいことを知った。
自分の価値を証明するために勝ち続けなくてよいのだと知った。
そのことでとても安心した。
いまは金銭的に裕福なわけではなく、勝利して賞賛されることもない。
いい車に乗れることも多分ないと思う。
しかし、イエスを主として生きられる日々、信頼できる友達、世代を超えたコミュニティー、フルタイムとして教会に仕えさせてもらっていること。
これらを与えられている。
弟子になって価値観が一変した。
今日、共にキリストの素晴らしさを知っていきましょう。
②キリストの復活の力を知る
フィリピ3:10-11
キリストの復活の前には、十字架が、人間の罪がある。
復活の前に、わたしたちは罪を知る必要がある。
バプテスマのときだけではなく、何度も罪を知りメタノイアする必要がある。
簡単ではない。しかし、十字架を知ることで、復活を知り、その力にあやかることができる。
わたしには昨年から向き合っている罪がある。
それは自己憐憫の罪。
2020年を振り勝った時、強烈に自己憐憫に襲われた。
何がよかったのか、悪かったのかを客観的にみれなかった。
自分はよくできなかった。そのような自分に価値はない。
だれかから励ましをもらったとしても、それを否定する心があった。
自己憐憫、自己中心。
自分を責め、自分が被害者になることに慣れ親しんでいた。
それは神様を傷つけること。
十字架で苦しむイエスよりも、いま自分が苦しんでいるという態度。
助けようとする人を傷つけた。
信じようとしない態度。罪をみれないと十字架を、復活をみることができない。
誰かが御言葉をシェアしてくれても、受け入れられなかったときもあった。
わたしは今日、復活の力を知るために助けてもらう必要がある。
毎日のように助かてもらい、祈ってもらう必要がある。
罪が出ていれば、愛と真理を持って伝えてもらう必要がある。
自己憐憫が出ているときに、謙虚になれないときがある。
しかし、何とかして、イエスの復活にあやかりたい。
復活は神様がわたしたちに与えてくださった希望。
希望は決してわたしたちを欺くことはない。
主イエスを知ることはどれほど素晴らしいでしょうか。
今日、メタノイアする必要がある罪は何でしょうか?
最後にメタノイアしたのはいつでしょうか?
メタノイアするために、どのように助けを求めているでしょうか?
フィリピ3:11「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
パウロですら、苦しみながら求めた。
わたしたちも、不完全でありながら、なんとか復活にあやかりたい。
キリストの素晴らしさを知っていき、復活に預かる者になりましょう。