ルカの福音書 18:9-14
福音書では、イエスに反対するものとしてファリサイ派が多く登場します。
彼らは、宗教的な立場として人々の前で祈るにふさわしいものと考えられていました。
徴税人は逆に自分たちの民族を裏切りローマ人のために仕え、お金によって動かされているものという気持ちでした。
悪の代名詞のような存在でした。
ポイント:神様の前で責任を取ろう
- 義とされる
- 正しいとされる
この二人にとって共通した、求める思いでした。
ファリサイ派は年に一回の断食と決められていた決まり以上に週二回も断食をして、決められていた金額を治めていたました。
徴税人は、祈りの中で憐れんでもらいたい、助けてもらいたいという思いに満ち溢れていました。
自分の中には、義とされる事が何もないということがよく分かっていました。
「神様によって義とされる」
- 創世記15:6
- 第二コリント5:21
- ローマ3:26
徴税人は自分の中に悪がないと分かっていながらも、自分はこれをやっている、あれをやっているという事も出来たし、他の人に指をさして他人のせいにする事もできたのにそれを行いませんでした。
神様の前で、自分と神様の間において解決しようとしていました。
神様に義とされるために、私たちは神様の前で責任を取る必要があります。
「責任を取る」の対極に位置するのが「見て見ぬ振りをする」だと思います。
私たちは、実際は何が起こっているのかわかっているのに、見て見ぬふりをしている事が多いです。
責任の取り方を間違っています。
目の前の事で圧倒される時、関係で難しさを感じる時、どのような態度を神様に向かっていますか?
昨年、ある尊敬する兄弟が素晴らしい心で新たに学び会を始めました。
しかし、いろんな事が上手くいかなくなってしまったため、苛立ち、他の兄弟姉妹とぶつかってしまいました。
そして傷つけてしまいました。
そんな時に私は、「色んな状況があるから仕方がない」と彼のために言い訳をしていました。
そんな時に、他のリーダーが厳しく彼を叱責しました。
その事によりその兄弟はとても落ち込みました。
その私の反応は「言い過ぎではないのか?もっと共感するべきではないのか?」と思いました。
でも、私が叱咤したリーダーと話した時に「彼が変わるためなら僕は自分が悪者になってもいい、でも神様の前にしっかりと向き合い、立ち返ってほしい」と話してくれました。
自分の無関心さ、見て見ぬふりをする態度に気づかされ本当に変わろうと思いました。
最初その兄弟は周りの状況のせいにしたりしていましたが、本当に自分の責任を取る必要があると感じました。
そして自分自身にもその心がある事に気がつきました。神様はどんな時にも自分の責任をとって変わる事を期待しているからです。
見て見ぬふりをする理由として、下記の3つがあるそうです。
どれも非常に共感出来るものです。
1.時間がもったいない
2.関わりたくない
3.後一歩が出ない(勇気が出ない)
イエスはこれら一つもなく、私たちに時間と心を尽くしてくださいました。
そして十字架にまでついてくださいました。
イエスは見て見ぬふりをするのではなく、常に深く私たち一人一人に入ってくださいました。
それをおぼえましょう。