今日は質問から始めたいと思います。
あなたにとって1年で最も大切な日はいつでしょうか?
聖書の中で、最も大切な日はいつだと思いますか?
今日は、聖書に出てくるおそらく最も大切な日について話したいと思います。
イスラエル、日本でもいま秋にお祭りが多い。収穫の時期だから。
わたしの家の近くでも、年に一度のお祭りに気合が入っている。
提灯が飾られ、御神輿に誘われる。
さすがに御神輿を担ぐのは断っている。。。
イスラエルの秋の3大祭り
・ROSH HASHANAH
角笛(ラッパ)の祭り
THE DAY OF TRUMPETS
・YOM KIPPUR
贖罪日
THE DAY OF ATONEMENT
・Sukkot
仮庵の祭り
第七の月(ティシェリ) 9月から10月にかけて
(月の暦なので毎年変動)
1日 角笛
↓
10日 贖罪日
↓
15日 仮庵
今日は、贖罪日について話したい。
2019年の三大祭りは、今日(9/29)の夕方から始まる。
最も特別で大事な日
贖罪日:Yom Kippur(The day of Atonement)
普段会堂に行かないユダヤ人でも礼拝に出る。
礼拝に出た後、家で静かにしている。
そしてこの第七の月は新年。
グリーティングカードを送り合う。
第七と言っておきながら、新年?
これは霊的な新年。
中東戦争、このYom Kippurにアラブ側が攻撃した。
ユダヤ人は、安息しないといけない日なので、ユダヤ側の対応が遅れた。
被害は甚大になった。
この日は一体どのような意味があるでしょうか?
春の祭りは、過越祭として聖餐式に反映されている。
しかし、秋の祭りは、わたしには馴染みがない。
レビ記23:27-32
贖罪、つまり罪が赦される日
大祭司が幕屋の中で、1年に一度この日だけ、一番奥の聖所に入れる。
苦行=断食。
断食は自分を見つめて、神様と向き合うこと。
忠実なユダヤ人は週2回断食する。
何ヶ月かに一度の断食も決められている。
厳格な人々は、頻繁に断食している。
しかし、聖書で命じている断食は実はこの日のみ。
神殿が壊れるまで、2匹の雄山羊が犠牲になっていた。
レビ記16:7-10
1匹は殺されて血が捧げられる。
もう1匹は、無人の地に追いやられ、衰弱して死ぬ。
アザゼルの意味は不明。
恐らく、悪魔。英語の聖書ではスケープゴート。
ポイント1:埋め合わせ
罪を背負って身代わりになる雄山羊、どのように思いますか?
わたしはあまりピンとこない。
犠牲、身代わり、スケープゴート…。
臭いものに蓋をする。
カーペットの下に隠す。
贖罪の元々の言葉は、覆うという意味。
さらに元々の言葉は、賠償、埋め合わせ。
欠けている、損傷したものに対して、何かで埋め合わせするのが、賠償。
どれほど足りないか、欠けているか、損傷しているか知らないと、賠償できない。
保険会社の人も、損傷を厳しく査定する。。。
わたし達は、スケープゴートという言葉を使う。
現代では、無実の人に責任か、罪を負わせることに使っている。
元々の責任や罪の酷さには言及しない。
そのような考えがわたし達にもないだろうか?
赦しと恵みを与えたい神様なのに、なぜ毎年このように酷いことをするのか?
小学校4年生の娘にこの聖書の箇所の話をした。
「ひどすぎない?」という反応だった。
これは美しくない。醜い。凄惨なこと。
この2匹の雄山羊が表わすものは、わたし達の罪の酷さ。
本当の雄山羊は、スケープゴートは実はわたし達。
それほど凄惨なものであることを理解しなければいけない。
わたし達がどれほど欠けているかをわからないと、本当の埋め合わせを理解できない。
なぜ神様は苦行: 断食を命じたか?
ユダヤ人にとって、角笛の祭りから10日間は自分自身を見つめて最も悔い改める時期。
わたし達は、霊的に間違ったこの世的なスケープゴートを生み出しているかもしれない。
ずっと取り組んでいるのに、自分自身に本当には直面していないのではないか?
誰かのせい、状況のせいにしていないか?
わたしは、教会が前進するためにずっと祈ってきた。
そして、わたしのイメージでは、もっと外向きのメッセージが与えられると思った。
しかし、わたしはこの秋の祭りにインスパイアされた。
神様はこのメッセージを伝えてくださったと思う。
本当の自分の罪に向き合い、解決していますか?
わたしはこの10日間、本当の自分に向き合いたいと思う。
1人の信仰が変われば教会が変わる。
ポイント2:見逃す
大目に見る。
なぜ神様は雄山羊を皆の前に歩かせたか?
だんだん見えなくなる。
そこにある酷いものを、わかっていながら、見逃すという意味。
罪があるのを見逃す。
見逃すのは難しい。
何回も言ったのに変わらないと許すのは難しい。
しかし、神様は、損害、罪を見逃す。
どのような想いでしょうか?
ずっと、皆さんに分かち合いたいと思ってきた話がある。これは実話。
アーミッシュ村での2006年10月2日に乱射事件があった。
アーミッシュとは?
17世紀に誕生したアナバプテスマ派
従順、謙虚で知られる。
近代的なものを拒否して生きている。
車でなく馬車。電話も使わない。
日常を祈りとして生きている。
近くに住んでいた32歳の男性が小学校に入って乱射。5人の女の子が射殺された。
この男性は、自分の幼い娘が亡くなったことに腹を立てていたという。
アーミッシュの人々は、葬儀後の5日後「わたし達はこの犯人をゆるします。」と世界中に宣言した。
犯人は自殺したが、奥さんと子供にアプローチした。
犯人のお葬式にもアーミッシュの人々は参列した。
彼らは犯人の家族を何年も、金銭的に、精神的にずっとサポートした。
彼らのゆるす理由は「神様に赦されているから。」
ある人々は、そんな風に許すべきではないと言った。
そんな風に許せるわけがないと疑う人たちもいた。
わたしはこの事件に関する本を読んだ。
そこには、この神様の罪への見逃しのような、決心とプロセスがあった。
それは簡単ではなかった。
どれほどの思いで、彼らは見逃したか?
見逃すのは大目に見ることでも、蓋をすることでもない。痛みを伴う。
神様も、おそらく痛みを伴われている。
ローマ3:23-25
罪を償う供え物。つまり、atonement(贖罪)。
ただの犠牲ではなく、イエスがその痛みになった。
身代わりになった。神様の痛み。
どれほどの思いがあって、わたし達の罪が見逃されたのでしょうか?
今日、贖罪の意味は本当の埋め合わせ。
力強い神様を覚えて、いっしょに人々に伝えて行きましょう。
最後の日に贖罪で赦される希望がある。
その力強い神様をいっしょに見つめて行きましょう。