『どん底で神を見つける』
“God does notexist to make a big deal out of us.
We exist to make a big deal out of him.
Itʼs not about you.
Itʼs not about me.
Itʼs all about him.
Weʼd see our suffering differently.
ʻMy pain proves Godʼs absenceʼ would be replaced with ʻMy pain expands Godʼs purpose.ʼ”
“Itʼs Not About Me”
by Max Lucado
神様は、私が大きな業を成すために存在するのではありません。
神様が大きな業を成すために、私 たちは存在するのです。
大切なのは、あなたでもなく、私でもなく、神様なのです。
それがわかると、私たちは自分の苦しみを違った風に見るでしょう。
「私の痛みは神の不在を証明する」から「私 の痛みは神の目的を拡大する」へと。
God With Us 勝利がある時、喜びの時、祝福の時、神様と共にいるのを味わうのは難しくないかもしれません。
しかし、神様はわかってくれていない、なんでこんなことが起きたんだ。
痛み、苦しみ、失望がある時、神様と共にいるのは難しいです。
今日は大預言者エリヤを通して、本当に難しい時こそ神様が共にいてくださること、神のご計画が拡がることを学びましょう。
彼の人生では神様の大勝利がありましたが、その直後には、人生のどん底に落とされました。
立ち直れないほどの痛み、傷、失望に苦しみました。
しかし、エリヤは最終的に荒野で神様を見つけました。
今日、私たちにとっての希望は、エリヤの最も輝かしい日々は、大きな挫折と失望の後に来たことです。
エリヤは紀元前9世紀に活躍した預言者です。
彼は、最も有名な大預言者の一人であり、新約聖書にも出てきます。
エリヤの時代の北イスラエル国はアハブ王という最悪な王と、最悪の女王イゼベルの時代でした。
彼らを中心にバアルが神として礼拝されていました。
有名な、カルメル山でのエリヤと450 人のバアルの預言者との対決がありました。
そこで命懸けの大勝利を収め、バアルの預言者たちを皆殺しにしました。
今日はその後に、彼がどん底を味わう場面から学びましょう。
ポイント①: どん底で神は共におられる
列王記19:1−4
アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。
「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。
彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。
わたしは先祖にまさる者ではありません。」
どうして歴史的な勝利の直後にエリヤは恐れて逃げてしまったのか。
どうして信仰のヒーローが自分の命を絶えるのを願うまでの落ち込んでしまったのか。
Disappointment is the gap that exists between expectation and reality.
Life Wisdom by John Maxwell
失望は期待と現実のギャップである
エリヤは明らかに落ち込み、失望しています。
彼はずっとプレッシャーがかかる、命懸け、緊張感の最前線にいました。
仲間の預言者たちの多くは殺されてしまいました。
アハブ王はエリヤを殺すために、あらゆる国に人を送りました。
そのような状況下で、カルメル山の勝利がありました。
ずっと仕えてきた甲斐があった、報われたとエリヤは思ったでしょう。
このような期待を持ったかもしれません。
これから神様がアハブ王、そしてあのイゼベルまでもメタノイアに導くかもしれない。
イスラエルで偶像礼拝が終わり、ここから国全体が神様に立ち返るかもしれない。
しかし、期待とはかけ離れた現実に直面し、彼の心はボロボロに砕かれました 。
後にエリヤはこのように言いました。
1列王記19:10
エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。
ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。
わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
エリヤは最も難しい時代に、誰よりも忠実で、情熱を持って主に仕えてきました。
国が神様に立ち返るビジョンを持って、頑張ってきました。
しかし、現実に直面しました 多くの人が神から離れ、殺され、次は自分が殺される番だ。
自分は先祖のようにできなかった、自分はダメだ、適任ではなかった。
孤独感、ビジョンの損失感、大きな失望感、悲しみ、嘆きが伝わってきます。
彼は自己憐憫に陥ってしまったようです。
自己憐憫になりやすいのは、このような思いがある時です。
○私は正しいことをやったのに
○私は自分のベストを尽くしたのに、結果は思ったようにはならなかった
自己憐憫に陥ると
○極端になる
0/100 になる
被害者意識になる
エリヤは今まで仕えてきたのに、自分の命が絶えることを願うほど極端になりました。
○事実を見ない(嘘を信じる)
エリヤは預言者が多く残されている事実を見られなくなりました。
自分はダメだ、先祖にまさるものではない、誰も言っていないけど、嘘を信じてしまった 。
○同じことを繰り返して言う
苦々しさ、解決できていない傷のサイン
14 節、たった 4 節の後に全く同じセリフを神様に言っています。
人は失望し、自己憐憫に陥ると、神様の声が聞こえなくなります。
自分の痛みしか見られなくなるからです。
私たちの中にもエリヤのような自己憐憫はありませんか。
向き合いきれていない神様に向けた怒り、苦々しさ、失望はありませんか。
神様のために熱心に仕えてきたのに、なんでこれが私に、なんでこうなってしまったんだ。
私はあります。
こんなに神様、人のためにやってきたのに、と失望し、自己憐憫に浸っていたことがあります。
自分の夢やビジョンが崩れ去り、全てを否定されたように感じたことがあります。
そこには損失感、絶望感、無力感、失望、怒り、混乱がありました。
祈る気力も、聖書を読む気力もなくなりました。
極端になり、交わる人に同じことをずっと繰り返し話していました。
心の奥底には、傷ついた自分、神様に失望した自分がいました。
そこからわかったことは、私は簡単に神様を見られなくなる弱い者だということです。
神様に忠実に、熱心だったエリヤも、この時ばかりは諦めてしまいそうです。
神様はエリヤにどのように接したでしょうか。
列王記19:5-9
彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。
御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。
主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は⻑く、あなたには耐え難いからだ」と言った。
エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。
見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
神様は失望し、自己憐憫に浸るエリヤを咎めなかった。
叱らなかった。
責めなかったです。
神様は寛容に接してくださいました。
エリヤが今まで誰よりも頑張っていたことを分かってくれました。
神様はエリヤが休息と回復が必要、とわかっていました。
ただエリヤの話を聞いて、身体的なニーズを満たすためにパンと水を与え続けました。
神様の答えは、どん底にいるエリヤと共におられたということです。
誰よりもエリヤをケアし、力付けていたのは神様でした。
早く歩く必要はなく、大きな勝利も必要ありません。
最も価値があるのは、どん底にいる時に神様が共におられることを知ること、味わうことです。
ホレブ山、別名シナイ山は、モーセがどん底にいる時に、燃える柴で神様と出会った場所です。
絶望感、孤独感、失望感に苛まれる時、そこは神様を見つける最高の場所に変わります。
どん底にいる時こそ、神様が共におられることを覚えましょう。
ポイント②: 神はどん底を通して働く
“He became a man able to face facts with faith.
He kept his confidence, but now it was placed in God and not in an outcome.
He learned to trust that God works in and through difficulties.
Elijah gives us an example of a man who not only conquered his outer adversaries but more importantly conquered his inner adversary of flawed reasoning.”
Healing of a wounded idealist
エリヤは、信仰をもって事実に立ち向かえる人になったのです。
彼の自信は結果ではなく、今は神 に置かれるようになりました。
彼は、神が困難の中で、また困難を通して働かれることを信頼することを学びました。
エリヤは、外側の敵に打ち勝っただけではなく、より重要なこととして、自分 の内側の敵である間違った思考に打ち勝った人の模範なのです。
どん底を通して神様は彼の内側に働き、彼は全く違う心境でイスラエルに戻ることになりました。
①結果主義の信仰から日々の御言葉の信仰へ
1列王記19:11-12
主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。
見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。
しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。
しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
洞穴から出て、主の前に立つように言われました。
そこで、3つの物理的現象が起こりました。
これらの物理的な現象は、旧約聖書の中で主の現れの前兆として知られています。
しかし、どの中にも神様はおられませんでした。
エリヤは大きな勝利、大きな出来事の中で神様が、いつも働くと思っていたのかもしれません。
私たちもそうかもしれません。
信仰を、大きなイベントや大きな勝利によって建てようとしやすいです。
人の救い、特別な礼拝やイベントがあると神様の働きを感じやすいです。
しかし、神様は静かなささやきの中にいました。
特別な出来事ではなくて、日々の小さな出来事、毎日の御言葉に神様からのメッセージがあります。
結果主義の信仰、状況に信仰を置くと、最終的にエリヤのように失望してしまいます。
結果や状況ではなく、日々の神様の、そして御言葉のささやきに耳を傾けましょう。
②感情ベースの信仰から神様ベースの信仰へ
1列王記19:13−14
それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。
そのとき、声はエリヤにこう告げた。
「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。
ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭
壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの
命をも奪おうとねらっています。」
彼の身体的な動きに注目すると、横になって寝る場面が多く、洞穴でも横になっています 彼は初めて、自分から洞穴を出て神の前に立ちました 神様が自己憐憫や失望などの感情の洞窟にこもっていたエリヤを引き出してくれました 感情ではなく、神の声に耳を傾けるためです
「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
この二回目の質問に、エリヤは同じ答えをします
まだ自己憐憫から抜けきってはいないようです しかし、神様は明確に「感情ではなく、イザベルではなく、私に目を向けなさい」と言っています。
1日の感情:50000回
そのうちのネガティブな感情:40000回
感情は神様に造られた良いものです。
私たちはロボットではありません。
人は感情的に造られました。
感情によって人は無意識のうちに自分を守ることができます。
ライオンを前にして、怖いという感情があるから逃げることができます。
失望という感情によって、これ以上続けるのは良くない、というサインをもらえます。
これは良いことで、必要なものです。
しかし、私たちは感情によって信仰がぶれてしまうことが多くあるかもしれないです 。
良いこと、喜びがあると、今日は信仰がある、神様働く。
悲しみ、罪悪感があると、今日は信仰がない、神様はこんな私には働かない。
私にはこの葛藤が多くあります。
ハーレムさんに難しいことやネガティブなことがある中で、どうやって信仰を保つのか聞きました。
彼の答えはシンプルで、神様が万事に働くと信じているか。
聖書に書かれている神様の偉大さをベースに状況を見ることが、信仰だと教えてくれました。
これは頭ではわかっていても難しいです。
でも、私はそのレベルの信仰者になりたいです。
難しく感じる時でも、神様の偉大さに基づいて信仰を持てる弟子になりたいです。
感情を無視するということではありません。
エリヤのように、正直に感情も神様にさらしながら、神様に信仰を持つことです。
そして、感情ではなく、神様の素晴らしさに信仰を置けるような境界を目指しましょう 。
③孤独からコミュニティへ
1列王記19:15−16,18
主はエリヤに言われた。
「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。
そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。
ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。
またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。
これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
神様はエリヤに来た道を引き返すように言いました。
それはエリヤにとっては最も行きたくない場所でした。
「エリヤ、あなたは選ばれた神の器だ、私のためにまだやることがある」
それは、王と預言者を任命することでした。
そして、彼に事実を示してあげました。
エリヤがどう感じていたとしても、真実は、彼が 1 人ではなかったということです。
バアルに跪かなかった預言者が、イスラエルに7000 人もいました。
神様のエリヤへの励ましは
「あなたは一人ではない」
「一人でやろうとしてはいけない」
エリヤは3節では、従者をおいて行ってしまい、一人になりました。
神様と一人の時間を過ごすことはとても大切です。
しかし、私たちは弱いので一人で頑張るのではなく、一緒に生きるコミュニティが必要です。
エリヤの反応はどうだったでしょうか。
列王記19:19A
エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。
恐れで逃げて、死ぬことを願っていたエリヤが、自分の足で立ち上がり、再び歩み始めました。
ずっと留まっていた場所から出発しました。
彼が最も傷ついた、痛みを負った場所へと神様のために戻って行きました。
彼の直面する状況は全く変わっていません。
しかし、エリヤの内側はどん底を通して変えられました。
自分の心に問いかけてみてください どこかでずっと自己憐憫に留まってしまっていませんか。
解決していない苦々しさ、痛み、傷はありませんか。
もしあるなら、神様は「あなたはここで何をしているのか」と尋ねています。
神様は私たちが再び歩み始めるのを忍耐強く待ってくれています。
サマリア→べエル・シェバ→ホレブ山→ダマスコ
彼はかなりの距離を歩いてきました。
私たちも失望し、立ち直れなく感じることがあるかもしれません。
本来いたい場所から遠く離れたところにいるかもしれません。
何ヶ月かかっても、何年かかっても、大丈夫です。
どんなに今は遠くに居ても、1日一歩でも神様に目を向けて歩めれば、それは立派な信仰です。
エリヤが与えてくれる希望があります。
彼の信仰の物語はここで終わりませんでした。
エリヤの最も輝かしい日々は、大きな挫折と失望の後に来たからです。
○エリヤはこの後仲間の預言者と共に働き、彼らに見守られ天に召されました。
○エリシャという親友が与えられ、彼を育て、エリシャは2倍の働きをしてくれました。
○マラキ書には、エリヤはイエスの予言的な存在として描かれました。
○そして、900 年後にイエスと出会い、十字架について語り合いました。
今どんな状況にあったとしても、どう感じていたとしても、大丈夫です。
むしろ、どん底でこそ神様を見つける最高のチャンスになります。
どん底で神は共におられます。
そして、神はどん底を通して私たちに働いてくださいます。