『目を開いて見えるようにしてください』
エリシャ
-預言者エリヤの後継者
-紀元前9世紀
列王記下6:8-17
この場面でアラムの王はあらゆる策略を練ったが、すべてエリシャに知られていた。
アラム軍の軍隊の大群は街を取り囲んでいた。
従者にはそれしかみえていなかった。
エリシャはシンプルに神様が彼らの目を見えるようにしてくださいと祈った。
すると、万軍の火に囲まれた主の軍が見えるようになった。
いままで見えていなかったものが、見える。
これはクリスチャンにとっては、霊的に見えていなかったものが見えるようになったということ。
今日は正しく見ることについて3つのポイントから話したい。
神様を正しく見る
エリシャは、私と共にいる者のほうが、敵の数よりも多いといった。
神様の力のほうが偉大で強力であることを知っていた。
詩編68:18
今日、神がわたしたちを囲う戦車は幾千、幾万。
ハバクク3:8b
イエスの預言。イエスは勝利の戦車で来る。
神様がどれほど力強いか。
昔、面白いサッカーの番組があった。
一人だけサッカーに素人の芸能人が紛れて、プロのサッカー選手たちがプレイする。
しばらくしてその人の存在に気づく。
あるチームは終わりまで全然気づかない。
目の前に有名人がいて一緒にプレイしているのに気づかない。
これはエリシャの従者のよう。
わたしたちのよう。
彼はエリシャが祈るまで、自分が見えていないことにすら気づかなかった。
わたしたちも、神様を信じ毎日聖書を読み祈っているのに、
簡単に神様が歪んで見え、間違って捉えてしまうことがある。
だから、神様に目が見えるようにしていただくよう祈る謙虚さが必要。
盲目なのに気づかないのは恐ろしいこと。
幾千、幾万の戦車が取り囲み、勝利を約束する神様。
今日、その神様を正しく見ていきましょう。
自分を正しく見る
従者は、敵に街を包囲されたと思っていた時、どのような気持ちだったでしょうか?
恐れ、不安。
そして神様が取り囲んでくださっていることがわかったときは?
安心があったのではないでしょうか。
聖書の中で見えるようになった人物の一人はパウロ
エフェソ1:17-18
あなたがたの心の目を開いてくださるように祈った(I pray)とある。
なぜか?
彼も物理的、霊的に目が見えるようにされたから。
彼の心が開き、迫害する者からキリストを伝える者へと180度変えられた。
わたしたちもおなじような経験をした。
完全に変えられ、目が開かれるのは自分の力ではない。
祈りによって、神様だけができること。
罪の赦し、神の家族、天国で「よくやった。」といわれること、
復活の希望、神様に愛されていること。
これらが私たちが得ていること。
朽ちない永遠の愛。神様の息子、娘。
これらは物理的にみえない。しかし、霊的な事実。
周りの人、親などが何を言ってきたとしても、
それはサタンの嘘。
見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永遠。
エフェソ1:19-21
小さな力ではない。
神様の力はキリストを復活させ、あらゆるものに働く絶大な力。
同じ神様の力がわたしたちにも働く。
英語の聖書の表現では「信じる者に対して働く絶大な力。」
そのことをわたしたちはどれほど信じていますか?
さきほど話にあったGWのティーンの鴨川キャンプ。
名古屋からもスアちゃん、ヒジュくんんも参加してくれた。
わたしは、うまくいかなかったらどうしようという不安があった。
毎日、私の目を開かせてくださるようにと主に祈った。
今の状況下で送り出してくれた既婚者、ワーカーの皆さんに感謝。
ある子は教会のコミュニティーになじめていなかったが、
皆の中に戻ってきてくれた。
ある子は、いつかは弟子になるかな、くらいにおもっていたが真剣に聖書勉強したいといってくれた。
参加してくれた受験生もいた。
心が変えられた子供たち、参加者がたくさんいた。
神様が働いてくださった。
子供たちは単なる数字ではない。
一人ひとりが神様に愛された子。
話を聞くと、飼い主のいない羊のよう。
子供たちだけではなく、周りにはそのような人々がたくさんいる。
目を開けれてそのように見える。
他人を正しく見る
自分を正しく見えると、他人も正しく見えるようになる。
私自身、見えるものに左右される弱い者。
しかし、祈っていきたい。
今悲観的になり、現実に圧倒され、絶望している人もいるかもしれない。
それでも大丈夫。
具体的に:
-謙虚に認めて祈る
-盲目にするものを捨て去る
-信仰によって一歩踏み出す
「主よ、目を開いて見えるようにしてください。」
皆で大胆に祈りましょう。