『バルナバから学ぶ』
使徒言行録11:19-26
使徒言行録の7章でステファノが殉教する。
1世紀の教会として初めての殉教。これをきっかけに大迫害がはじまる。
彼らはエルサレムにいることができなくなり、散り散りに分かれていった。
しかしその結果、多くの場所に福音が宣べ伝えられた。
アンティオキアにも。アンティオキアはローマ帝国の中でも3番目に大きい
巨大都市だった。そこでは、ユダヤ語を話すユダヤ人だけではなく、
異邦人のギリシャ人たちもいた。
ユダヤ人だけでなく、異邦人にも救われたこと。
世界をひっくり返すような出来事だった。
バルナバはそのようなチャレンジの中、サウロ(のちのパウロ)をタルソスから
見つけ出し、やがて彼らは宣教旅行へと向かう。
まさにチャレンジから機会への場だった。
今日はこのバルナバから学びましょう。
①バルナバの『信仰』
使徒11:23
『バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、
そして固い決意を持って主から離れることはないようにと、皆に勧めた。』
当時、弟子たちはほぼユダヤ人だった。
この前の章で、初のユダヤ人以外のコルネリアスにバプテスマを授けたが、
異邦人が救われることは、尋常なことではなかった。
旧約聖書の時代、ユダヤ人は、選ばれた民だった。
ユダヤ人以外は、異邦人で、人間以下の犬扱いだった。
ユダヤ人が混血のサマリア人とですら交際しなかった。
神殿では、異邦人は異邦人の庭(一番外)までしか入ることはゆるされていなかった。
イエスの福音は、ユダヤ人だけではなく、異邦人にも開かれていた。
全ての人に福音が伝わることを大宣教命令で告げられた。
これは、バルナバやユダヤ人にとって大きなチャレンジだった。
何千年も守られてきたことが覆される。心がついていかなかったかもしれない。
しかしバルナバは、23節で弟子たちを見て喜んだ。
24節では、バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰に満ちていたとある。
ユダヤ人としてみたら、この変化はチャレンジでしかなかった。
しかし、神様の視点でみたら、異邦人が救われていることは素晴らしい光景だった。
バルナバには神様の視点で見る信仰があった。
わたしにはこのバルナバの信仰が必要。
チャレンジがあるとき、自分の見方をしてチャレンジに感じてしまう。
チャレンジを見なければ、避けてしまう。
リアリティーを見ると、不信仰に陥る。
いつの間にか、神様の見方で見ることが欠けてしまう。
去年、チャレンジの年だった。人がどう思うかを気にしていた。自信のなさ。
霊的自信を失っていた。その中で多くしてきてしまったのは、誤魔化しだった。
人に対しても、自分に対しても罪に対して甘くなり、
直視したり、指摘したりできなかった。
昨年末にそのことを教えてもらい、いまも向き合い中。
ヘブライ12:14
この聖句に留まり、少しづつ霊的な自信を取り戻している。
先日、ライフチャートをスタッフで作った。
自分のライフチャートはギザギザ。山あり谷あり。
しかし、ダウンしているときには、神様の働きによるチャンスがある。
私たち一人ひとりもそう。
試練が機会へと変わった証人。
最近、コロナが流行っているが、これも神様が働く機会と信じている。
②バルナバの『聖霊』
使徒11:25-26
バルナバはアンティオキアの教会を一人でリードせず、サウロ(パウロ)を
探し出した。
自分なら任命されたことに力んでしまったと思う。自分だけで頑張ろうとしたと思う。
しかし、バルナバはサウロを選んだ。
サウロは、回心したとはいえ、ユダヤ人の中のユダヤ人。
異邦人に宣べ伝えるには、真逆の人選に思える。
しかしここでも、彼は人間的な考えで選んだのではないとわかる。
祈って聖霊に頼ったので、神様の見方でサウロを選んでいる。
聖霊に頼るとき、自分の力でしなくてよい。
先日山崎牧師が話したように、手漕ぎボートではなく帆走。
けっして何もしないわけではなく、神様に頼る謙虚さがそこにはある。
バルナバは慰めの子という意味のあだながついている。
そんなあだながつく人は、どのようなひとだろうか?
バルナバは、人を励まし、共感し、いっしょに立ち上がるような人物、
周りの人に積極的にかかわる愛する人だったと思う。
信じて愛することができたのは、聖霊に頼って信仰を持っていたから。
そのようなバルナバには多くの人が集っていた。
自分が主役ではなく、わき役として慰めの子となった。
これは、イエスの人生に通じる。
イエスのように聖霊に頼った生き方、それはイエスを主とした生き方。
イエスを人生の主人公にした生き方
この前話されたように、これが成熟した信仰
皆様の周りにはどれだけ人が集まっていますか?
聖霊だけではなく、どれほど人にも頼りつながっていますか?
人にも霊的な見方で関わっている、伝えることができているでしょうか?
今年、バルナバのような信仰を聖霊に頼って
神様がチャレンジを機会としてくださることを共に見ていきましょう。