「足を洗いに行こう」
ヨハネ13:1-17
これは、わたしたちが最も多く読んだことがある聖句の一つ。
説教が難しい聖句。
でも今日、わたしたちの愛、そして神様の愛を考えるときに大事な聖句。
わたしたちは足を洗えていますか?
今日、わたしたちは愛の定義を変えて行きましょう。
最後の晩餐、イエスはこの上なく弟子を愛し抜いた。
腰に手ぬぐいをまとって弟子たちの足を洗い始めた。
ペトロの反応は「ノーノーノー」。
イエスは「イエスイエスイエス」。
ペトロ「じゃあ全部お願いします!」。
やり取りは何でしょうか?
ポイント1:イエスに洗ってもらう
この場面は、死ぬ前にイエスが愛を表現した場面。
自分が明日死ぬとわかっているのに、弟子たちの足を洗った。
無条件の愛。裏切るユダの足も洗った。無償の愛。
何の得にもならなかった。汚い足を洗った。
この教会は頑張る。一生懸命無償でやる。無条件の愛で愛そうとする。
でもその犠牲で重くなっていないでしょうか?
ただ頑張る教会から、信仰にあふれた教会へ。
信仰にあふれた教会はもちろんハードワークです。
でも、ただ我慢して頑張って犠牲している教会は、信仰にあふれている教会でしょうか?
このイエスとペトロの会話はずっと噛み合ってない。
わたしは20年前から、これがずっと引っかかっている。
「洗わないでください。」「洗います。」「じゃあ全部。」
ペテロはイエスから「あなたはわかっていない。」と直接言われた。
でも、わたしたちはわかっているのでしょうか?
イエスは清いとか清くないとか言われた。
わたしは最近この聖句を違った角度で見られることがあったので、皆さんにもシェアしたいと思います。
出エジプト30:17-21
モーセの時代の幕屋について話されている。
移動しながら神様を礼拝するために、どのように幕屋を持ったらいいかが詳しく具体的に書いてある。
幕屋には、生贄を捧げる祭壇がある。
その先にある聖所に行くには、そこの間に洗盤、つまりたらいがあった。
ここに入れるのは、祭司のみ。
でも神様はあまりに清い方なので、祭司ですら手足を洗って清めなければならなかった。
それは絶対。シリアス。洗うか、死ぬか。
これはまさにヨハネ13章だと気がついた。
聖所 -洗盤-祭壇
(神様)-(たらい )(捧げる人)
イエス- たらい- 弟子
(神様 )(洗盤 ) (捧げる人)
イエスは無償の愛より、清めることをまず考えておられたはず。
人々が清いかどうかを気にしておられた。
神様に生贄を捧げる前には、まずわたしたちは清めないといけない。
神様に触れるには清くないといけない。
でも、イエスはわたしたちを神様の前で清め、ふさわしいものにしてくださった。
イエスのほうから、その泥を落としてくださっている。
新訳聖書は、わたしたちクリスチャン皆が祭司
この聖句は無償の愛で頑張り、犠牲して、無条件の愛で愛する、、、苦しい事ではない。
イエスの方からわたしたちの足を洗ってくださる、清めてもらうこと。
毎日、わたしの足は汚れる。
素晴らしいのは、毎日イエスは足を洗ってくださること。
毎日イエスが触れて洗ってくださったら、わたしたちの神様との関係は、どう変わるでしょうか?
この出エジプトの聖句が指し示すものがイエスだとわかってすごくエキサイトしている。
同時にぶっ飛ばされる思いがある。
なぜ毎日イエスに触れないで、頑張ってしまうのか?
犠牲して神様を忘れてしまうのか?
自分を清めないで祭壇へ行こうとしていませんか?
あなたは何のために一生懸命働くのですか?
何のために悔い改めますか?
何のためにイエスの愛で愛そうとしますか?
何のために捧げていますか?
-イエスに洗われることを期待していますか?
2週間前に親戚のお姉さんを亡くした。姉の夫の妹。ほぼ同い年。
何度か会う機会があった。
以前少しこの場でも話させてもらったことがある。
ステージ4の癌だった。
両親はすでに他界。
どういう思いで生きてきたのだろうと考える。
姉の夫家族は、子供がいて5人家族。そこで5人だけで葬儀したと聞いた。
わたしは、イエスを知っている者として、手紙を書いた。
感謝と残念な思いと願いと希望。
こういうことこそ、わたしたちがするべきことではないかと思ったから。
わたしたちが毎日神様に触れて清められているのであれば、本当に正しいことに目を向けられる。
イエスが気にかけているのは犠牲や頑張りではない。
神様と直接触れている関係、純粋な心、神様を畏れ敬っている態度です。
ポイント2:誰かの足を洗いに行こう
わたしたちがイエスに足を洗われたら、もう一つの期待がある。
愛すること。他の人を洗い、清めること。
その役割を与えられている。
だから、他の人の人を愛しに行く期待がある。
「渋谷おとなりサンデー」をご存知ですか?
渋谷区の企画。昨年から出来た。
商店街中にバナーが飾られているのを見た方も多いと思う。
今年は6月3日だった。
1999年パリで始まった、隣人祭り。
あるアパートで高齢者が孤独死した。
同じアパートの30歳の青年が、立ち上がった。
こういうことが二度と起きないように、隣人と愛し合うイベントが出来た。
中庭でワインを飲むという、いかにもフランスらしいイベント。
今は各地に広がっている。
住人が交わりを持つ。
つながりが大事。
「隣人で交わりを持ちましょう。」
渋谷区長が言った。
チョコレート屋さん、フクロウカフェでもやっていた。賛同したら誰でも参加できる。
ちょっと待ってください。
わたしたちがいつも毎週やっていることではありませんか?
神様に触れているわたしたちが、人が神様に触れられるように愛すること、イエスを知っているわたしたちの役割。
ただ我慢して犠牲して頑張るのがわたしたちの人生ではない。
人がわたしたちを通して洗われるように一歩踏み出しましょう。
もう一つは、毎日足を洗うのは、毎日汚れるということ。既婚者でも毎日出来る。
今日わたしの人生には、神様によって足を洗ってもらって喜んでいる人が溢れている人生にしたい。
問題はいつもあふれていると思う。
でも、家に人を呼んでください。
人と会う約束をしてください。
聖書を伝えてください。
あなたは、人々がイエスに触れることができると約束された人だから。
わたしは、人がもっと多くこの教会で救われるのは全然難しいことではないと思っています。
誰かが1人をずっと1年愛したら、教会は倍増する。
先日、とある教会の夫人が木曜日だけ仕事を休みにしていると話してくれた。
それは夫人ディボに出るため。
彼女は、何でもしたいと言ってくれた。
ふと見ると先日、中庭で大学生とバトミントンしていた。40ウン歳だと思うけど、20歳くらいの子と楽しんでいた。
彼女は、わたしの妻の友達の夫人の方と友達になっていた。
喜んでイエスに洗われているから出来るのだと思います。
わたしたちもイエスに洗われているものとして多くの他の人の足を洗いに行きましょう。