マルコ9:14-29
先週、説教で語られた聖句と同じ。
深く読んで注目したい箇所がある。
イエスが目を向けていたものと弟子たちが目を向けたものの違い。
弟子たちは、息子の悪霊を追い出すことに目を向けていた。
イエス、父親の信仰に目を向けていた。
目の付け所が異なっている。
21節でイエスは父親に「このようになったのは、いつごろからか」と質問をする。
イエスは神の子、このことを知っていたはず。
なぜイエスはあえてこの質問をしたか?
この子の人生に何が起こっているか知っているはず。ヨハネ4章に登場するサマリアの女性との会話でも明らか。
当然、イエスは全てご存知。この息子と父親の人生も。
でも、父親に質問する。
この質問をした理由を考えた。
それは、父親の心を明らかにしようとしたからだと思う。
22節に父親の回答が書かれているが、本来は「幼い時からです」で十分だったはず。
でも、「おできになるならお助けください」と父親は話す。
父親は事実を語った。子供と父親が味わった苦難。
この箇所から分かるのは、父親は過去の経験に支配されていた。
父親は、とても頑張ってきたと思う。
息子のことでがっかりすることもありながら、息子を愛してきた。
イエスは、父親にチャレンジする。
彼の頑張って来たプライド、プライドから来る不信仰に。
子供にとって、一度イエスの奇跡によって悪霊を追い出して貰う経験するよりも、父親がイエスを信仰する方が重要。
悪霊を追い出すだけなら、イエスは父親と話す必要はなかった。
イエスにチャレンジされた後の父親の態度は良かった。
私のコーピングスタイルは反撃。
私が父親の立場ならイエスに「独身のあなたに自分の苦労が分かるはずがないだろう」と答えてしまう。
でも、この父親は不信仰と向き合い、悔い改めることができた。
信仰を持つことは責任を持つこと。愛する人のために霊的責任を持つこと。
父親だけに限らない。人を救いたいと考えている全てのクリスチャンに当てはまる。
不信仰は、言い換えれば責任を取らない態度。
この話の中心的メッセージは、子供が癒されたよりも父親が悔い改めたこと。
私たちは目に見える状況に支配されやすい。
ヨハネ20章で、イエスはトマスに語った。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
信仰のあるところに奇跡が起きるが、奇跡が中心のメッセージではない。
私たちは経験と努力で生きやすい。それは、世の中の常識的な生き方。
この世の常識で生きるか、信仰で生きるか、心を吟味する必要がある。
経験や努力を伝えるのではなく、信仰を伝える。
昨年私が神様から信仰を与えられたことは、父親になるプロセス。
神様と娘が、私を父親にしてくれた。毎日、神様と娘に感謝している。
47歳にして初めて父親に。感謝と責任を感じている。
娘にはベストを与えたい。
47歳でダウン症の娘を持つのは、常識的な判断ではない。信仰による決断。
神様のベストな計画を信じて良かった。
娘は人見知りMAX、可愛さMAX。私は親バカMAX。
神様も親バカ。私たちを愛するあまり、独り子イエスを送り十字架にかけてくださった。
それほどまでに神様は私たちを愛してくださっている。
2016年10月5日にこのような報道があった。
厚労省が、12歳以上のダウン症を抱える852人へアンケートを行い、9割以上の方が毎日幸せに感じていると回答した。
父母や周りの人が自分を大事にしていると感じる人は94%。
ダウン症を抱えていても、一般企業や作業所で勤務している人も多い。
この調査結果、真実だと思う。
自分が幸せだと思っている人と一緒にいると、周囲も幸せになる。
問題が無いわけではない。
娘の心臓に穴が空いている。左耳がほとんど聞こえない。ヘルニアもあることが最近分かった。
発育がゆっくり、知的障害も予想される。
訪問介護をして貰い、療育を行っている。療育とは、発育が遅れている子供のための追加の教育。
正直、大変に感じる。
この聖句を読みながら、悔い改めに導かれたことがある。
シニアミニストリー、既婚者ミニストリーにおける成長。
私は牧師として、皆さんの父親的な役割を果たしている。
昨年娘が来てから、人に会う時間が減った。
教会成長のための働きが出来ないということに、罪悪感があった。
でもそこから、シニアミニストリーと既婚者ミニストリーに成長がないことに、言い訳し続けていたことに気づいた。
既婚者、時間と体力に余裕がない。
シニア、時間はあるけど体力がない。
でも、これはイエスに対する不信仰。
でも、これによって皆さんの成長を助けられなかった。
悔い改めて期待していこうと思います。
信仰を持って、皆さんにとって居心地の悪いことをどんどん言っていこうと思う。
人間的な衰えがあったとしても、信仰があれば神様が働く。
時間がないのではない。信仰がない。
信じる者には何でも出来る、これを改めて決心したい。
28節で、弟子たちがイエスに質問する。なぜ自分たちは悪霊を追い出せなかったのか、と。
弟子たちは、過去の経験に頼っていた。
過去に悪霊を追い出せた。でも、今回は追い出せなかった。
この教会も、人の救いに昔は関わったが、最近は関わっていないという人も多い。
29節で「この種のものは、祈りでしか追い出せない」とイエスが語った。
救いのためには、より深い信仰が必要になる。
あなた方にも、長い間どうすることも出来ない状況があると思う。
聖書勉強しても友人の心が変わらない、壁にぶつかっていると感じることはありませんか?
信仰に向き合って悔い改めるため、今年の教会のテーマ聖句としてマルコ9:23が選ばれたと感じている。
私と妻は、12月28日から1月4日まで携帯電話が使えなかった。家電話のみの生活をしていた。
その生活を通して、自分がどれほど携帯に支配されているか、気付かされた。
一日に何回、携帯に意識を取られているか気づいた。
携帯が無い生活、昭和時代みたいだと思った。
携帯のない生活からの霊的なレッスンを考えて見た。
携帯もメールもLINEも無かった時代の方が、私たちの教会でバプテスマが多かった。
そこから何を私たちは学ぶか?
携帯のない時代、今よりはるかに人との連絡が取りづらかった。
限られた時間に対して、もっと祈ってかつては準備をしていた。
結果として、奇跡が多かった。
神様が私に教えてくれたメッセージ。
あなたは祈りと携帯、どちらに頼っていますか?
携帯を使ってはいけないと言っているわけではない。
まずは、祈りに頼っていきましょう。
祈った上で電話する、メールする、LINEする。
そのような行動を神様は祝福する。
医学も科学も通信手段も急速に進歩している。
でも、神様は悔い改めと信仰により働く。
この聖句の時代から2000年以上経っても変わらない。
私たちが悔い改めたらどれだけの奇跡が起きるでしょうか。
悔い改めによる信仰を持ってください。
あなたがクリスチャンになったということ、奇跡を味わったということ。
そのためにイエスは死んで、復活してくださった。
イエスに人生を献げる決意をすること、愚か。その愚かな決断を私たちはした。
信仰を持って宣べ伝えていきましょう。
でも、色んな試練を味わうと、信仰を失ってしまう。
みんなでマルコ9:23を今年のテーマ聖句にしましょう。
変わらなかった状況を長年見てきて、変えられた姿を想像出来ますか?
でも、今年はそんな年にしていきましょう。