コンサートを通して教会の素晴らしさを感じました。
企業の方のボランティアが驚いていたそう。
「老若男女がハグしていて暖かい。わたしにはハグはないのですか?」と。
則岡徹さん作曲のオリジナルソングも本当に感動的だった。
カンボジア教会の25周年に行って来ました。
カンボジアの皆さんからの感謝をお伝えします。
この5年で急速に発展している国。
いい時も悪い時も走り続け、25周年。
考えさせられた。なぜできたか?
イエスの福音が彼らに宣べ伝えられたから。
私たちも福音について考えましょう。
今日私たちに与えられている福音は、私たちにどのような意味をもたらしているのでしょうか?
1コリント9:19-27
これは最高の聖句。
ポイント1:福音の力強さ
パウロにとっての福音。
「わたしは誰に対しても自由ですが、すべての人にとって奴隷のようになりました。福音を宣べ伝えるために走り抜いています。」
この言葉をどのように感じますか?
パウロは力強い。どんな人にもなった。自分を服従させた。そう感じますか?
それとも、パウロは愛深い。憐れみ深い。優しい。そう感じますか?
わたしはほとんどの場合、パウロの力強さを感じて来ていた。
どんな人にも対応出来るパウロ。
さすが。強いなあ!
それは真実だと思う。
けれどもちょっと深めてみましょう。
パウロにとって、すべての人のようになるのは簡単だったでしょうか?
ユダヤ人なのにユダヤ人ではない人のようになる。
律法に支配されていないのに、律法を持っている人のようになる。
かつては、律法に厳格に生きていて、キリストにより改心したパウロ。
それに対し、自分と全く違うように生きている人、むしろ、嫌だなと思うような人。
弱い人、つまり、信仰が未熟な人。
パウロが普通にしていたら見下してしまう人。
「何でそんなところに引っかかるの?」と思う人。
自分から見てあまりに違う人、全然意見が違う人、ダメだなと思う人と心を一致させること。
わたしは難しいと思う。
パウロはすごく確信があった。もっとも影響のある一人になった。
力強さ、だけではない。
砕かれた心、本当の自分をさらけ出す脆弱さがある。
本当の自分を謙虚に認める、自分は何者でもないと認めないと出来ないこと。
今日、本当のメッセージはなんでしょう?
その力強さは、どこまでもさらけ出して、砕かれる力を福音が与えたことにある。
「わたしはすべての人の奴隷になりました。」
ここではアオリストという言葉が使われている。
ギリシャ語は、時制を非常に気にする言語。
この言葉は、「その一瞬、その時に揺るがない事実という時制」で書かれている。
福音の力強さは、どこまでも変わらない力強さと、どこまでも変わり続ける力強さが生きているということです。
わたしは10年前にカンボジアに行ったが、キリングフィールドは初めてだった。
大虐殺のあった場所。国民の1/4が拷問を受けて殺された。
40年前に起こったこと。 ただ悲しく重い場所。記念碑は骸骨で出来ている。
子供を打ち付けて殺した木が残されている。 同じ人間がして来た過ち。
わたしたちは知るべきこと。
プノンペン教会には親や祖父母が経験した人たちがいる。
20代の兄弟に車の中で聞いた。
彼のおじいさんは村の指導者だった。
連行されるのに、200人近い村人を守るため、自分だけを連れて行くように懇願した。
おじいさんは二度と戻らなかった。
安全地帯に行くために、600km徒歩で歩いた母。
その兄弟は起きたことを知るために何度もキリングフィールドへ行ったという。
わたしは、今年、神様がもっと深く神様を知るようにメッセージを送っているのを感じる。
大阪に行った。とても楽しい時間を家族と過ごした。
あまり知られていないがわたしには姉がいる。
義理のお兄さんのご両親は立て続けに両親を失った。
彼のお姉さんが独身でステージ4の癌。
言いようのない苦難を経験していることを話してくれた。
父に悪性の癌が見つかった。進行性の癌。
来週詳細な結果が出る。お医者さんは、あまりよい状況ではないと言っている。
もしかしたら手術出来ないかもしれない。神様に頼り祈る。
もっと謙虚に砕かれた心をさらけ出す脆弱さ。
無力な自分。
その人に寄り添って、その人のようになることを神様は呼びかけられているのを感じる。
今日私たちに与えられている福音はどのようなものでしょうか?
謙虚に、さらけ出す
神様ではない、力をあたえない他のものにつながらないでいましょう
本当の力を与える福音を生きましょう。
ポイント2:賞を得るように走る
福音を得ることは、適当にやることやただ走るのではなく、賞を得るように走る必要があるとパウロは話した。
ちなみにコリントには、古代オリンピックのようなものがあった。
今日このメッセージをどのように受け取りますか?
福音に生きることは、適当に生きること、まあまあではない。
ベストを尽くして生きないと福音を得られない。
Fun Running(ファンラン):文字通り、楽しんで走ることが目的
アメリカが発祥。楽しむことが上手いのはさすが。
ファンランが悪いわけではない。
タイムや目的は関係ない。仮装したりして走る。目立つことが大事。
これは目的が違う。賞を得ることは違う
私たちも楽しむことが目的になっていませんか?
自分が癒されること、励まさせることが目的になっていませんか?
福音に生きることは、賞を得るために走ること。
節制すること、トレーニングする必要が見えているのにやらないのはなぜ?
ベストを尽くさずまあまあでやっている人を助けないのはなぜでしょうか?
立ち止まっている人、走れない人を助けないのはなぜ?
夫婦関係が悪い、人が救われないのはなぜ?
あなたがファンランをしているから。
本当の福音のレースを走る必要がある。
パウロは福音に生きた。賞を得るように多くの人を得ることができた。
別のものにつながらないでください。
過去半年、皆さんにお伝えして来たオーストラリアに留学中の彼。
先日、ついにバプテスマを受けたいと行って来た。
お父さんとの関係が悪かった。
その彼がお父さんを福音によって愛そうとしている。
来週戻って来て両親に言って、バプテスマを東京で受ける予定です。
お祈りください。
力強い福音に生きましょう。
是非一緒に朽ちない冠を受けに行きましょう。