ヨハネ13:34ー35
イエスはなぜ「新しい掟」と語ったのでしょうか?「愛しなさい」、という教えは既に他の箇所にもあるのではないでしょうか?
一昨日の既婚者男性デボで、この質問した。色んな答えをしてくださった。
私が話そうとしていた、完璧な答えをしてくださった方もいらっしゃった。
マルコ12:31
レビ19:18
隣人を愛しなさい、という掟は既にあった。
でも「わたしがあなたがたを愛したように」がこのイエスの新しい掟。
これまでは「自分自身を愛するように愛しなさい」、という掟。
新しい掟は「イエスが愛したように」愛する。基準が高くなった。
イエスはどんな基準で弟子を愛したか?
ヨハネ13:1-17
イエスは、この基準で弟子を愛した。
クリスチャンとして、聖書の教えを伝えられるかどうかは、これにかかっている。
あなたは自分が発しているメッセージと周りが受け取っているメッセージは一致していますか?
日本には、厄介な「本音と建前」文化がある。
最も大切なことは、イエスの教えの実践。
先週、感情のプロセスを実践することが大切、という話が山崎牧師からあった。
あなたたちも今、その経験の最中かもしれない。重要な教え。
私たちの教会では、学生、各世代の救いを大切にしている。
次世代の救い、子供たちの救いを明確に目標として掲げている。
私たちの家と教会での行動が一致していることは、家庭の最重要課題。
だから、夫婦関係、家庭関係に入り合う。それがイエスの期待。
謙虚さと真実のため、お互い入り合う。
繋がりは、弱さを正直に話せる関係から成り立つ。
先週、武士牧師の説教で「泣いてもいい。感情を出して受け入れてもらうことは大切。」という話があった。
そして、イエスが行った足を洗う行為は、ユダヤ人の奴隷もしない行為。当時は異邦人の奴隷の役目だった。
ペテロの反応、尋常じゃない。動揺、困惑、拒絶。
異邦人の奴隷の行為をイエスがする。
ペテロ、生理的な違和感があったと思う。
あなたは、生理的に受け入れられないと思うことはありませんか?
イエスの愛し方は、時に違和感を与える。
圧倒されるほどの謙虚さを、イエスは実行し、命じる。
違和感があるからやらない、受け入れないという態度は「私と何の関わりもなくなる」とイエスに言われる。
明らかに世の中とは違う、世の中の人は実践不可能な教え。
これを実践することによって、イエスを主とすることができた。
非常に高い期待の掟。
この教会のメンバーは、それぞれ小人数のグループに属している。なぜか?
小グループがイエスの愛で足を洗い合う場所、掟を実践する場だから。
時に裏切りを味わうこともある。
私たちは、自分にとって最も汚れていると思うことに入りあっている。
これをディサイプリング、と言っている。
私たちは、他の人を奴隷の態度に等しい態度で愛することは、居心地のいいことではない。
でも、イエスは「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」と言っている。
イエスの高い基準を実践する時に、「幸いである」と言った。
新改訳聖書では「祝福を受ける」と書かれている。
霊的な祝福を受けることによって、イエスのようになっていく。
イエスのように作りかえられていくことは嬉しいことですか?
今年、神様から娘を与えられた。
娘と散歩していると周りの人から「パパそっくりですね」と言って貰える。
嬉しくなる。
神様は、私たちが「イエスに似ている」と言って貰ったらどれほど嬉しいか?
イエスのようになるために不可欠な教え。
ヨハネ13:35
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
真実に対して勇気を持って、お互い入りあっていますか?
不信感や恐れに負けて、世俗的な会話で終わっていませんか?
イエスの愛で愛することで、イエスと、兄弟姉妹とつながる。
私は娘に将来、「僕はこんなに素晴らしい兄弟姉妹と繋がっているよ」と語りたい。
弟子訓練を受ける、というのは自分の責任。
ディサイプリングされていない、必要ないというのは、「自分には助けが必要ない」、というメッセージを周囲に発することになる。
ディサイプリングは年を重ねるごとに難しくなる。
互いに足を洗い合う必要がある。
SGLの兄弟姉妹、特に気をつける必要がある。正直で謙虚であること。
イエスは、弟子の行動に物凄く傷つくこともあったと思う。
でも、傷つくことを恐れて心を開かなければ、成長しない。
お互いの繋がりはどうですか?小グループに所属していることが全てではない。
私は、この教会を牧会していて心を痛めていることがある。
既婚者兄弟デボにも日曜デボにも来ない兄弟がいる。
アカウンタビリティを果たしていない。
自分の本当の状態を伝えるのは自分自身の責任。
学んでいないと、心を出し続けないと繋がれない。
その責任は自分にある。
皆さん、弟子の心を持っていますか?
デボに来ない人を責めているわけではない。
心配しているのは、そのままではイエスのようになれないこと。
継続的、意図的な努力が必要。
皆さん、聖句の実践をしていますか?
教会は、ディサイプリングされる場。
SGLにイエスと同じ期待をすることを、悔い改めとして決心した。
イエスの期待ではない、自分の期待。
ある兄弟について、スキーマが強くて助けられないのでは?という恐れが正直あった。
それはイエスの掟を信じていない私の不信仰。
決心して勇気を持って、実践していく。
誰かの足を洗うこと、居心地は良くないが、イエスの愛する期待を実践するよりも簡単。
でもイエスの期待は愛の基準。最も触れて欲しくない場所を自らさらけだすこともある。
想像よりも汚いかもしれない。
それでもイエスは洗ってくれる。兄弟姉妹は愛してくれる。
これがイエスの期待。
私も過去、20年前にイエスの愛で深く愛されていた。
当時、プライドでガチガチの心で自分の感情がわからなくなった。
アドバイスを兄弟に求め、毎日、徹底的に正直に自分の思いを書き出すことを決心した。
当時、メールが普及していなかったので山崎家にFAXして山崎牧師に書き出した思いを見て貰った。
山崎牧師も嫌だったと思う。でも、数ヶ月続けた。
先週、山崎牧師がQTノートをシェアしてくれた。自ら模範を示してくださった。
イエスの愛で足を洗ってくださった兄弟姉妹がいたから、今私は教会にいられる。
大切な確信は、「この教会、学び会の責任は自分がとっていく」という確信。聖書通り。
居心地の悪いことを、スタッフにだけやらせないようにしましょう。
聖書通りの行動は、家族、教会、日本を変える。
礼拝後の交わり、これまでと違うものにしましょう。
コミュニティ無く、弟子でい続けるのは不可能。
互いに足を洗い合いましょう。
自分の足を出して、相手の足にも触れましょう。
イエスの掟を実践するとき、みんなが心で繋がって救いに繋がっていきます。