ヨハネ13:21-30
ヨハネの13章と聞くと、私たちは「弟子の足を洗う」と「互いに愛し合いなさい」にフォーカスしがち。
これを書いたのはヨハネ。
「イエスの愛しておられた者」と自分を呼ぶ。興味深い表現。
自己紹介で、自分ではなく他の人が主語、というのはすごい。
それほどヨハネの人生にイエスは影響を与えた。
その人の人生をイエスが定義づけた。
今日はこの箇所からイエスの愛について学びたい。
十字架にかかる前の日。4つの福音書に出て来る話。
イエスはここで、ユダが裏切ることを知っていた。
「誰が裏切るのですか」と弟子から聞かれて「浸したパンを与える者だ」と答え、パンをユダに渡した。
そしてユダは立ち去った。
ユダはヨハネの愛にをどう見ていた?
ポイント1:イエスの愛は「情緒的」である
情緒とはどういうことか?
国語辞典によると
- 「人にある感慨をもよおさせる」
- 「その物独特の味わい」
- 「物事に触れて起こるさまざまな感慨」
・・・わかり辛い。
ここで注目したい言葉:心を騒がせる(Trouble in Spirit)
元々の言葉にトラブル、が入っている。色んな複雑な思いが絡んでいる。
色々と、イエスの心がうごめいている。
イエスにとって、ユダに伝えることはドライな出来事ではなかった。
冷たく言うことは出来なかった。イエスはユダを3年間愛していたから。
イエスの心は痛んでいた。彼に対する憐れみがあった。
今日、このイエスの姿を見て何を感じますか?
私は、イエスが簡単にユダに伝えている、厳しいと感じていた。
しかし、「浸したパン切れを渡す」意味について調べてみた。
特別な愛情、友情を示す行動。旧約聖書のルツ記でも、ボアズがルツに渡している。
弟子たちは混乱した。裏切る相手に愛情表現。
イエスは、ユダが裏切ることが分かっていた。
でも、最後の最後まで情緒的にユダのことを思っていた。
最後の最後まで愛し、気にかけた。
イエスの愛は情緒的。憐れみに溢れている。
このイエスの姿をどう思いますか?
改めてこの箇所を読んで、イエスはすごいと思った。自分だったらユダを裁いてしまう。
何でイエスと同じようにやるのは難しいのか、と思った。
私はずっと体育会系で、感情をおさえて来た。
聖書勉強中、「君は何を感じているの?」、と聞かれて沈黙してしまった。
また、自分は「罰」を与える傾向がある。自分にも他の人にも。
責任を取ること重視。繋がるよりも。蒔いたものは絶対刈り取る。
でも、イエスが教えてくれるのは、責任を取ることよりも、感情的に繋がることが大事。
イエスはユダを3年間愛してきた。
しかもお金によって裏切られようとしている。
その時にこそ、隠すのではなくて愛しているということをはっきり示した。
このようなイエスの愛を持ちたいと思う。
イエスはドライな神の子ではない。
複雑で様々な感情を持つ方。
浸したパン切れをいつも与えてくださる方。
それを知って、私たちはどのように反応出来るでしょうか?
最近、意図的に取り組んでいることがある。
子供時代の感情を向き合うこと。
ある兄弟は、母親が感情的だった。傷付くような発言を何度も言っていた。
その影響で、今も女性の感情的な発言に傷付いてしまう。
その傷に取り組むことにした。
彼の10歳の時の傷に触れた。涙がいっぱい出た。
でも、10歳の自分に「もう怖がらなくていい」と伝えられた。
それ以来、母親が怖くなくなった。
神様についてのセッションも持った。
神様は繋がってくれる、平和を与えてくれる方であることを改めておぼえた。
私たちは情緒的な生き物。
繋がりがどれだけニーズなのか、改めて感じた。
情緒的な部分にイエスが繋がりたいと思ってくださっている。
私たちはもっと深く繋がりたい。
そのためには、変わる必要がある。
私たちは、情緒的な繋がりが苦手だから。特に日本人。
感情をおさえて過ごしてきた人は多いと思う。
イエスの姿を見て、何も感じない人は助けが必要。
繋がってください。
ポイント2:イエスの愛は「はっきり」伝える
「はっきり言っておく」という言葉、原語の聖書では「AMEN」となっている。
イエスがはっきり伝えたい言葉がある箇所に出て来る。
ヨハネは、もう一つ大事な言葉を書いた。
ユダに「しようとしていることを今すぐしなさい」とイエスが言ったこと。他の福音書には書かれていない。
この言葉も、イエスの愛を表わしている。
ユダにとって、明らかにされる言葉があった。
ユダは否定もせず、立ち去った。
「しようとしていることを今こそしなさい」、ユダに直接語りかける言葉。
「他の人は関係ない。あなたの心はどうなのか?」と。
サタンが彼の心に入っている。
ユダはどちらかを選ばなければならなかった。
イエスはパン切れを渡しながら、この言葉を語った。
中途半端さ、曖昧さはなかった。
はっきり、真理を伝えた。
私たちははっきりいうことは、反応が怖いので曖昧にしてしまう。
威圧的に言う必要があると思ってしまう。難しいからしたくない。。。
でも、イエスはここで爆発していない。憐れんで、真実を伝えた。
ここから何がわかるか?
イエスにとって、真実を伝えることは愛を伝えるのと変わらない。
恵みと真理をイエスは兼ね備えている。
イエスは私たちに直接語りかける。
「しようとしていることを今すぐしなさい」
そのイエスの愛を感じられますか?納得出来ますか?
今週、ある兄弟が相談してきた。次の聖書勉強で、勉強中の男性にはっきり伝えたいことがあると。
自分が良い関係を築いているなら、はっきりと伝えた方がいいとアドバイスした。
愛することにはリスクがある。威圧するのではなく、感じていることをはっきり伝えればいい、と伝えた。
そして、聖書勉強の時に実際に伝えた。
「君はいいものを求めているけど、躊躇している。取り組んでくれていない」と。
彼は泣き始めた。今まで心を出さなかったのに。
そして、話し始めた。親友と呼べる人が今までえいなかったと。
びっくりした。今までにないぐらい、彼と情緒的な繋がりが出来る、変えられる時間だった。
ある人がチャレンジしたところに神様が働いてくれた。
イエスの愛を実践した勝利、と思った。
「しようとしていることを今すぐしなさい」
真実を伝える文化、イエスの愛で関わる文化を作りましょう。
でも、パン切れを渡さずにチャレンジするのはやめましょう。関係を壊す。
イエスの愛にとどまり続けて、変えられていきましょう。