フィリピの信徒への手紙から、今月は学ぶ。
1週目:生きるとはキリスト
2週目:キリストに倣う
3週目:キリストを目指して
4週目:キリストによってすべてが可能です
フィリピ=ピリッポイ(ギリシャ)
今年(2016年)、世界遺産に登録された。
なぜ今フィリピの信徒への手紙か:
- イエスへの信仰
- 視点をイエスに向ける
- フィリピ教会の課題
→私たちの教会の課題
主題の聖句、「生きるとはキリスト」(フィリピ1:21)
フィリピ教会設立の背景:
- 聖霊がマケドニア州にいくようにパウロに働きかけた(使徒16:6-10)
- 紫布の商人リディアという婦人(使徒16:11-15)
- 投獄と看守と家族の救い(使徒16:16-40)
パウロの本来の予定ではなかった。
使徒16章に教会設立の経緯が書いてある。
リディアが最初に救われる。
その後、パウロは投獄されてしまう。
牢屋の中で奇跡が起こる。地震が発生し、枷も牢の扉も開く。
囚人が逃げたと勘違いして自殺しようとした看守を止め、救いに導く。
これがフィリピの教会の始まり。
聖書諸論(Bible Introduction)
「聖書は神の言葉ではない、信じない」という人にどのように聖書を説明するかの授業。
その授業で二日前に出た課題が次のもの。
- なぜパウロは後になって、ローマの市民権を主張しているのか?(使徒16:37)
聖書には書かれていない。
最初からローマ市民権を主張していれば、傷つかなかったのでは?
■仮説1
最初からパウロはローマ市民権を主張していたが、暴動の最中で聞き入れてもらえなかった
■仮説2
残される若いフィリピの教会が守られるようにと、敢えてこの時点でパウロはローマの市民権を主張した(自分の屈辱感からの反撃ではない)
私は仮説2を支持している。パウロは、フィリピの教会が、自分がいなくなった後に守られるように、高官に対して貸しを作った。
このことからわかるようにパウロにとってフィリピの教会は特別。
パウロのフィリピ教会への愛。
フィリピ1:3-8
- パウロの13ある手紙の中でもフィリピ教会への手紙は別格
- 湧き上がる喜びを率直に吐露している
- 喜びを持って祈るほどの親密さ
- 最初の日から今日まで福音にあずかっている
私たちは、福音を聞いてイエスの弟子になってから今日まで、福音にあずかっている。単にクリスチャンでいるだけではない。
福音にあずかっている:
- 「福音宣教にあずかって来た(現代訳)
- パウロの福音宣教活動にいろいろな形で参加したことを意味する
- エパフロディトをパウロに遣わした
- パウロの宣教活動のために献金した
- 「最初の日から今日まで」十数年間継続して繰り返し続けた
フィリピ教会の特徴:
- 最初からの異邦人都市の教会(旧約聖書の知識がない、ユダヤ人が少なく会堂がない)
- 迫害や圧迫
- 極度の貧しさ(2コリ8:1-4)
- 若い弱小教会(資金、人材、リーダーシップ不足)
フィリピの教会、迫害・貧しさの中にある教会。弱小教会。
そのような教会が設立間もない頃から、パウロを支援し続けていた。
フィリピ教会から学ぶ:
- イエスキリストの救いの恵みを深く味わい感謝している
- パウロとの深い信頼関係
- 福音宣教の使命と責任の自覚
- 時間・財力・精力がどれほど福音宣教のために使われているか
- 本日、福岡ミッショントリップ開催中
東京教会の献金、成長している。素晴らしい。
私たちは、世の中のストレスでこころが硬くなりやすい。
霊的な闘いは価値観の戦い。
神様が評価するものと世間が評価するものは異なる。
先月、ヨハネ1章「言は神であった。」の御言葉から説教させてもらった。
イエスに会えないわたしたちは、聖書を読むことが必要。
QTは、個人的に聖書を深く読み込んで神様と向き合う時間。
QTはどれほど重要ですか?
礼拝の説教は、QTとディサイプリングがあって生かされる。
時々、こんなことありませんか?訪問者の方が、クリスチャンより説教に純粋に反応している。
どう思いますか?私たちクリスチャンのほうが刺される。
私たちは高慢になりやすい。
いろいろなことを当たり前と思いやすい。
そうなると、聖書に向き合うことをしなくなっていく。
異邦人教会の信仰は、パウロを強く動かした。
聖書の知識を持ったユダヤ人クリスチャンと接していた中、純粋な情熱と感謝に深く心を動かされた。
今日、私たちは神様にどれほど心を動かされていますか?
昨夜、聖書勉強中の友人が参加するので土曜礼拝に参加していた。
秋山大地さんが20人の前で説教していた。
説教を聞いてびっくりした。
御言葉を深く理解し、彼の人生から深く解き明かした素晴らしい説教だった。
彼は救われて2年。
御言葉の力はすごい。彼の聖書への態度が、彼自身を変えた。
私が彼の年齢の頃の聖書理解を超えられている。
フィリピから、福音宣教の使命と責任について考えたい。
救いにフォーカスしていないイエスの十字架は何になるでしょうか?意味がない。
福音宣教の情熱がないクリスチャンの人生は、競技に出る目的がないのに毎日ランニングしないといけないと感じている人。
目的が明確じゃない。
目的の有無で、取り組みの姿勢が大きく変わる。
目的がないと、やらされている感が出てしまう。
ランニングにしても、「奥さんにやらされている」、「最低限やればいい」、「雨が降ったら終わり」と妥協してしまう。
結果として自分の動機が弱いと続かない。
私は走るのが苦手、嫌い。
2年前のチャリティーマラソンで、10km走った。生涯初。
明確な目的、就労支援がありエントリーした。
エントリーしてから意識を変えた。シューズを買った。
ジムに通って走りの練習し、体重が減り、完走した。自信になった。
改めて目的意識が必要だと思わされた。
考えてみてください。キリスト=救い主
クリスチャンは、イエスを主とする人。
想像してください。救いのフォーカスのない救い主がいたら?
想像できない。笑ってしまう。
どれほど私たちは救いについての責任を感じていますか?
自分の信仰を守るだけのクリスチャンは、クリスチャンとは言えない。
キリストを知り、キリストの価値観を持っていきましょう。
救われた時の思いを思い起こしていきましょう。
パウロは皆さんをフィリピの教会員のように愛してくれていますか?
本日、福岡ミッショントリップがシニア中心に実施されている。皆さん、他人事ですか?
福岡の教会の今後を憂いている。皆さんには何が出来ますか?
自分の人生、教会のことだけで精一杯ですか?
自分は、2008年にすべてを捨てて東京に来た。
ハイライトがある。チーム松坂学び会。松坂大輔と同世代のメンバーが集まった学び会。そこで木島真一くんが救われた。
この救いがあっただけでも、東京に来たかいがあったと思えた。
フィリピ3:18-21
パウロの価値観(死生観):
- キリストが宣べ伝えられることが喜び
- ローマの獄中から、処刑(死)を意識して書かれている言葉
- 死に向き合う時に真理を知る
- キリストを知っている者にとっては、死はもはや「呪い」ではなく「神の国への入り口」である
シェアリング:遁所美香
「私の場合今生きているのは、私ではなくキリストであり、死さえも決して無益ではない。」フィリピ1:21(現代訳)
私は約1年前、里親資格を失った。年齢制限に達した。
養子を迎えられないこと、残念だと思い、言葉では表現出来ない寂しさを感じながら祈った。
そんな中、友人からあるNPO法人の話を聞いた。
子供のことでは辛い思いをしていたので、最初は前向きになれなかった。
でも、夫婦で話し合ってまずは講習会に参加してみようとなった。
その講習会は、「里親を紹介しています」という内容ではなかった。
里親を紹介している夫婦に、覚悟を問う場だった。
- 夫婦二人の生活ではだめですか?
- 残りの人生の大半を子育てにささげられますか?
- 大変なのは5年後、10年後、20年後。その時、後悔しませんか?
- 皆さんには何があってもいいわけをせず、試練や困難と向き合う覚悟はありますか?
などと問いかけられた。それがメインの講習内容。
今までの講習会との違いに衝撃を受けた。
極め付けに、過去1年の間にダウン症の子供を迎えた5家族の話があった。
5組の家族は、感謝と喜びを話してくれていた。
でも、「私には無理」という声が聞こえ続けていた。
帰宅途中、夫に話が出来なかった。
「私は何に反応して動揺しているのか教えてください」、と祈った。
そして、見えて来た。
- 50歳を過ぎて0歳児を育てられるか?
- 30年会えていない実の娘はどう思うか?
- 職場の人はどう思うか?
- 親は賛成してくれるか?
- お金は?
- オファーを断ったら、クリスチャンなのに口だけと思われる?
などの不安から、無理と思っていた。
そして、NPO法人の面接で「お二人はクリスチャンとうかがいました。もし、障がいをお持ちのお子さんを預かることになったらどう思いますか?」と質問された。
「喜んで受けたい、とお答えしたいですが、正直心の準備が出来ていません」と答えるのが精一杯だった。
追い詰められたように感じて、イライラした。そのNPO法人は、健常の子を紹介するケースが多いのに・・・。
でも、これらの質問を通して神様が自分の弱さに光を当ててくださった。
自分は、出来れば健常の子を与えて欲しいと思っていた。
障がいを抱えている親の大変さはわかるが、自分は健常の子が欲しいと思っていた。
自信がない、と言いながら臆病になっていた。
不安、と言いながら自己中心になっていた。
「クリスチャンでなければ自分の思いを通せるのに」、とさえ思った。
20年以上クリスチャンとして歩んできたが、自分の本質に気付き愕然とした。
神様の目からみて、障がいがあるのは自分だと見せられた。
情けなくて、イエスの十字架を価値のないものにしてしまったと感じてしまった。
「神様が与えてくださった私の命の中に、イエスだけがいるようにしてください」と祈った。
そして2ヶ月後、ダウン症を持った生後5ヶ月の子供を紹介したいという打診がNPO法人からあった。
とても平穏に受け取れた。養子に出来なくても、まずはだっこしてあげて「あなたは神様に愛されている子供だよ」と伝えたいと思った。
今日お話した私の醜い心は氷山の一角。
皆さんの助けをいただきながら、罪に生きずにキリストと生きたい。人の救いのために人生をささげたい。
(シェアリング終了、遁所牧師説教へ)
私は、愛する人に最も伝えたいのは「キリスト」。そのために生きたい。
ダウン症の娘が、この世に当たり前のことなど何もないと教えてくれる。
毎週2回リハビリ、予防接種など。
彼女が先にこの世を去るか、私が先に去るかわからない。それが現実。
時間は限られている。だから大切にしたい。
こんな簡単なことを人は忘れてしまう。傲慢。
キリストにしか救いはない。
限りある人生を仕方なかったで終わらせないために、本当に大切なものを大切にしていますか?
神様との関係、夫婦関係、親子、兄弟姉妹・・・。
過去の自分が今のあなたを支配していませんか?
キリストに生きることを妨げるものはなんですか?
あなたに生きているのは「あなた」ですか?それとも「キリスト」ですか?
あなたにキリストがどのように生きているか、信頼する兄弟姉妹に聞いてみてください。
生きるとはキリスト。心に留めて歩んでいきましょう。