『神様からの召命』
スライドはこちらから→20201004 神様からの召命 モーセシリーズ1
モーセのことを深く知るため、出エジプトだけでなく、レビ記、申命記なども学んでいきます。
QTシリーズも準備されています。
最も神様に対して謙遜と言われるモーセからの学び、素晴らしい。
神様にフォーカスし、神様から始めて行きましょう。
出エジプト3:1-10
モーセは柴の間から神様を見た。
大事なのは、柴の間から神様がモーセに呼びかけたこと。
ポイント1:神様の思いから始める
神様はモーセに呼びかける。
自分が何者であるか、そして自分の気持ちを伝えて、モーセに行けと伝えた。
非常に一方的。
神様の事情しか言わない。
モーセの状況は確認しない。
私たちの神様は無関心な方でしょうか?
私は、これは神様からのラブレターかと思った。愛の手紙。
ラブレターは自分の気持ちを一方的に伝えるもの。
相手の気持ちは関係ない。
神様からの呼びかけ、命令形。
そこはラブレターとは違う。
なぜ、ここでモーセの事情に触れていないのか?
それは、出エジプトはモーセのストーリーではないから。
一番大切だったのは、神様の思い。
だから神様が話の主導権を握っている。
出エジプト3:7-9
神様はただ上から見て指示を出す方ではない。
また、擬人化表現が使われている。
神様でありながら、人として捉えて表現されている。
神様がいかに人に近いかを現している。
彼らは奴隷として生きてきた。
その彼らと約束する。救い出す、攻め登る。
それはイエスの人生そのもの。
今日、私はこの神様の思いに触れて心を打たれている。
神様には自分に対してこのような思いがあるのか、問いかけられる。
自分自身から始めると、自分がどうか、出来るかという自己中心に陥ってしまう。
罪が憎い。憤りを感じる。
願望ではなく、神様が何をして欲しいのかを伝えないと何も始まらない。
今日、神様が何をして欲しいかから始めていますか?
自分がやるしかない、という動機になっていませんか?
私が初めて神様の思いに触れられたのは、十字架の勉強の時。
十字架の勉強で、罪と神様の愛が繋がらなかった。
その時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)を読んで変わった。
イエスの辛い思い、それを息子から言われる神様の辛さ。
それ程までに神様、イエスは私のことを思っていてくださっていた。
残りの人生を、イエスのために献げると決心した。
「だから今、行きなさい」と出エジプト3:10で神様は呼びかけた。
神様の思いを受け止めることから始めましょう。
神様の思いから始める教会を作り上げていきましょう。
ポイント2:私は何者でしょう
出エジプト3:11
ファラオ、自分を殺そうとしている。
イスラエルの民は400年以上エジプトの奴隷。
モーセは「私は何者でしょうか?」と反応した。
自信、信仰がなかった。やりたくなかった。恐れがあった。
自分は雄弁ではないので、他の人をとまで言った。
なぜそんな反応をした?
40年前、自分のやり方で民を救おうとした。
助けた民から「誰が我々の監督、裁き人にしたのか」と非難された。
かつてはやる気、大胆さ、ビジョン、信仰、プライドに溢れていた。
失敗して挫折した。
仲間から罵倒され、神様のために何で?と傷つく思いがあった。
そのような経験があった。
40年経って謙虚になった。
でも、自信がない、不信仰、恐れ、やりたくない、わたしは何者?という反応は正しいのか?
私は最初、この反応を見てモーセの弱い部分だと思っていた。
今はモーセの良い部分だと思っている。
脆弱な心。
感じていることを正直に神様に話せる関係、近い関係。
私たちは、このような反応を良くないと決めつけがち。
そのような心は良くない、などと責めてしまう。
自分が強い、出来ると感じた時の方がうまくいかない。
脆弱な時、神様を頼れる。
燃えている、強い時こそうまくいくと考えがち。
「わたしは何者でしょう?」
この反応が最も素晴らしいかもしれない。
神様は、モーセの反応に「彼は整えられた」と感じたと思う。
自分は何者でもない、そのように認められる人こそ神様に用いられる器。
どのようにすればそうなれるか?
そのためには自分が何者か理解するしかない。
本当の自分を見つめる必要がある。
時には立ち止まって見つめる。
昨晩のWhat’s Going Onでもありましたが、私たちの現在は過去から大きな影響を受けている。
モーセも過去を見つめる時間を持った。ミディアンで40年間。
不毛な土地で羊飼い。
モーセはより霊的に深くなって、謙遜になっていった。
40年間を経て、何者でもない器に作り替えられた。
だから神様の呼びかけに「私は何者でもない、やりたくない」と認めることができた。
私たちもやりたくない、認めたくない、恥を書きたくないという思いがあるかもしれない。
今日、本当の自分を見つめてさらけ出していますか?
あなたの内面と外面は一致していますか?
自分を見ていればいるほど、遠ざかっていってしまう。
プライドだけの人になってしまう。
先日、東京を一望できる場所に行った。
特別な場所。私が8年前初めて教会の小グループに参加した場所。
同じ景色を眺めたが、その時とは全く異なる人生を歩めている。
かつては人生に目的がなく罪の奴隷だった。
神様が苦しんでいるわたしを見つけてくれた。
大勢の人がいる中、わたしを神様が呼んでくれた。
罪を、十字架を知ったとき、バプテスマの喜び、忘れない。
わたしは何者でしょう?
わたしがここにいるのは、自分の努力ではない。
神様の恵みでしかない。
本当の自分を確信できる。
必要なのは神様だけ。
東京は美しい街だが、人々には神様が必要。
改めて神様の思いに立ち返りましょう。
「だから、今行きなさい。わたしはあなたを遣わす。我が民日本の人々を闇から連れ出すのだ。」
出エジプト3:10を自分流に変えてみた。
今日、神様が私たちを呼んでくれている。
神様の召命に応えるには「私は何者でしょう」という謙遜な兄弟姉妹が必要。
全員が必要とされる教会を共に目指していきましょう。