『生きるとはキリスト』
スライドはこちら→20210117 フィリピシリーズ1 生きるとはキリスト
2021年東京キリストの教会テーマ聖句が決まった。
フィリピ1:21「生きるとはキリスト」
どのような状況でも私たちの原点であるキリストに立ち返りたい。
今年もコロナ禍が続き、どういうことがやっていけるのかわからない。
でも、キリストは変わらない。
今日の説教タイトル「生きるとはキリスト」は、テーマ聖句から取った。
フィリピの信徒への手紙概要:
・著者パウロ
・「手紙」:一方通行
・獄中書簡:パウロがローマの監獄から書いた
・第二宣教旅行で設立された教会
・パウロを財政面含めサポートし続けた教会
・パウロにとって特別な存在
・教会宛の手紙としては最も個人的な手紙
・フィリピの教会:迫害や教義の対立など難しい状況
今の教会のこと、皆さんのことを考えた。コロナ禍により難しい状況。
フィリピの手紙のテーマは「喜び」。
パウロはこの手紙を書いた時、ローマの牢獄に入っていた。
難しい状況であるにもかかわらず、手紙の中に16回「喜び」という言葉が入っている。
なぜ喜びがあるのか?
キリストがいるから。
フィリピの手紙に、キリストを示す表現が104節ある中で51回出て来る。
パウロは牢獄にあり、いつ処刑されても不思議ではない中で。
今日、改めて喜びの源を考えましょう。何から来ますか?
何によって消えてしまいますか?
どうすれば喜びは消えないですか?
ポイント1:ふるまいに気を付ける
フィリピ1:12−21(聖書協会共同訳)
「きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。
つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、
主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。
キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者もいます。
一方は、私が福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、
他方は、利己心により、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
だが、それが何であろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。これからも喜びます。
というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなることを知っているからです。
そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。
私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。 」
パウロは、牢獄に入っていても福音が伝わっていると喜んでいる。
生きるにも死ぬにもキリストが示されて欲しいと伝わってくる。
パウロが言いたいことは、なんでしょうか?
私にとって、しっくりこない箇所がある。
20節、「そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。」
「堂々と語る」は新共同訳では「公然と」という表現だった。
恥ずかしいことではない。
パウロが「人生が表されて欲しい」、というのは公になることを期待している?
意味がよくわからなかった。
親が「それ、やめなさい、恥ずかしい!」と子供に言う場面を想像できますか?
日本的な表現。
自分の罪悪感、内面の話ではない。
日本人は「みっともないから」、という言葉をよく使う。
私は両親からよくこの言葉を言われた。
この言葉、私に恥をかかせるための言葉ではない。
恥をかかせないために言ってくれている。
でも、クリスチャンになるとこの言葉を空虚に感じた。
ふるまいだけ、外側だけ綺麗にすればいい?
聖書の中にはこのようなことが書かれている。
・パーティーに呼ばれた時、上席についてはいけない。恥をかかされる。
・平手で打たれる、上着を与える、ほおを向けなさい
・イエスが公で質問される:「名誉と恥」
・十字架にかけられた理由のひとつ:公で指導者たちの名誉が崩された
・「恥としない」
・罪にも「恥と名誉」の側面がある。
パウロも明らかにこのようなことを色んな表現で使っている。
内面なこと以上に、自分の振る舞いが公にどのような影響を与えるかを気にしていた。
投獄、本来は恥。
それが益になっている。
なぜこの考え方が大切か?
恥と名誉という文化を最も美しく説明するならば、周りとの関係を大事にしているということになる。
このコミュニティに迷惑を与えてはいけない、恥をかかせてはいけない。
公になる振る舞い、なぜ強調する?
内面を蔑ろにするわけでも、外側だけ綺麗にするということでもない。
私たちの信仰、自己完結になりやすい。
自分の態度、行動がどのような影響を与えているか?
パウロはどのような影響を与えているかを考えた。
キリストが崇められる、公になるようにしていると手紙に書いている。
自分はキリストに結ばれている、教会に繋がれているからコミュニティが恥をかかないように。
だから公を気にした。
彼がふるまいに気をつけるのは、キリスト・教会との結びつきと繋がりがあるから。
この関係性が大切だから。
それが、生きるとはキリストということ。
だから喜びに留まれる。
最近、このことに留まることを考えた。
私たちはもうひとつ異なる文化の影響を受けている。
個人主義、プライバシー。
だから、私はかつてこの教会に初めて来たときにみんなの正直さに惹かれた。
それが神様との結びつきにも繋がっている。
でも、時間が経つと繋がらなくても歩めてしまう。心を開かなくても。
信仰は、神様との関係性を深めること。
神様との関係、深めるためには目に見える人との関係性も必要。
信仰は個人的なもの。
本当に内面的に作り変えられる必要がある。
今、周りに「助けてください」と発信することを実践している。
発信すると助けて貰える。
確信しているのは、それがキリストと繋がること。
弟子の基本を話している。
今日改めて、考えてみる。
私たちはこのコミュニティに対して、誠実にしているでしょうか?
ぜひ神様の前でも、教会の前でも誠実に振る舞いましょう。
他の人に自分の人生に入って貰えるようにしていきましょう。
ポイント2:自分の限界を知る
フィリピ1:21−26
「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。
けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
この二つのことの間で、板挟みの状態です。
私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい。
しかし、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。
こう確信しているので、私は世にとどまって、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、あなたがた一同と共にいることになると思っています。
そうなれば、私が再びあなたがたのところに行くとき、キリスト・イエスにあるというあなたがたの誇りが、私ゆえに満ち溢れるでしょう。 」
パウロは生きるとはキリスト、と言った後に死生観について語った。
自分は板挟みだと。
死ぬことはキリストとともにいることでも、生きることは教会の弟子たちのために必要。
この箇所に、喜んでキリストを表すポイントがある。
「私には分かりません」
パウロは自分には支配できない領域をわかっていた。
「私たちの苦しみは、自分が動かせないものを動かそうとすることである」
26節「キリストにある」「キリストに結ばれている」In Christ
パウロは誰が動かせるか、支配できるかをわかっていた。
”私たちの苦しみは、自分が動かせないものを動かそうとすることである”
”そして、本当は誰が動かせるのか、その存在をわかっていないこと”
動かせないもの、支配できないものを神様に委ねた時、平穏と喜びを得る。
映画「スーパーマンリターンズ」に考えさせられる場面がある。
主人公は、普通の人間になりたいと思い、スーパーマンの役割について考える。
超聴覚で、地球の人々の助けを求める声を聴いて自分の役割を改めて理解した。
説教を作る中で考えさせられた。
「自分は特別だから人を救える」と言っている人、教会にいない。
でも、スーパーマンのように振る舞ってしまう。
限界を超えて責任を果たそうとしてしまう。
自分はそう。
限界を超えてやってしまう。
自分の限界を知っていかないといけない。
そうでないと神様の働きを蔑ろにしてしまう。
シェア:内御堂仁美
フィリピの信徒への手紙の1章を読み、パウロから喜びに満たされた自由を感じた。
パウロの祈りが気になった。
パウロは9−11節で弟子たちがどれほど成果を出せるかではなく、神様の愛を感じられるようにと祈った。
知る力と見抜く力を得られるように、と祈った。
私は年末、一年を振り返って神様の働きを感じた。
でも、残念に感じたこともあった。
最後の4ヶ月、賜物を用いられたことは感謝だったが、責任感でやってしまった。
私は過度に傷ついてしまう傾向がある。時間をかけてのプロセスが必要になる。
忙しい4ヶ月の中で、心を大きく揺り動かされる出来事があった。
時間が必要だが、どうすれば良いか?時間をとって誰かに助けて貰うか?
その時、責任感から心のギアを入れてしまった。
助けてもらう時間がないから頑張る、
そこから、自分のことをわかってもらいたいのにわかってもらえない思いが強くなり、不信、自己中心に陥った。
助けてくれようとした姉妹も傷つけてしまった。
結果的に神様の愛を表せなくなっていて、年始に助けてもらった。
傷つけた姉妹に謝ったら「パウロが言うように溢れるほど愛を受けて欲しい。責任感から心を無にしてやることは必要ない」と言ってもらった。
昨年末、自分は霊的にハンドル出来なかったが、限界を知ることは大事なことだと思った。
自分は極端になりやすいが、仕えないということではなく、しっかりバランスを取りたい。
今年この点を神様に変えてもらいたい。
・やらないといけないと思ったら黄色信号。
・トリガーされたら姉妹に助けてもらう
・聖句に留まる
限界を越えるのではなく、知る力と見抜く力で喜びに満たされてパウロのように仕えたい。
キリストに委ねることは大事。
自分に動かせないものを動かしている、限界を超えているものがあれば、キリストに委ねましょう。