『献げ物と愛』
スライドはこちらから→20201129 献げ物と愛 モーセシリーズ9
レビ記から献げ物について深めたい。
献げ物の規定が細かく書かれている。
通読していると、レビ記はあまり関係ないと飛ばしてしまっていた。。。
神様がなぜ献げ物を定めたのか?
レビ記1:1-5
献げ物について詳しくみていく前に、物事には影と実体があることを理解する必要がある。
ヘブライ10:1
献げ物は影。実体はイエス
毎年の献げ物では人を完全なものにすることはできない。
イエスならできる。
私たちの献げ物とイエスがなってくださったこと、それがどれほど特別なものか実感しましょう。
ポイント1:イエスは献げられた
献げ物が神様に受け入れられる条件、3つあった。
1.無傷の雄
・欠陥のない
・傷のない
・汚れのない
健全で元気な雄でないといけない。
神様はなぜいいものしか受け取らないのでしょうか?プライド?
実体はイエス。イエスだけが罪のない唯一の男性の献げ物。
2.自ら引いて行く
動物、献げ物として引かれると不安、恐れが出てくる。
私たちも意思に関係なくどこかに連れて行かれると不安を感じる。
イエスも十字架上に向かうとき、そう感じたと思う。
そのためにイエスを世に遣わせた神様も心を痛めたかもしれない。
3.手を頭の上に置く
・身代わり
身代わりの象徴として。
一週間前、ある夢を見た。
中3の時から可愛がっていた飼い犬の頭を撫でている夢。
頭を撫でること、特別な繋がりを感じる。
・一体となる
親密さ、愛着が出てくる。
奉納者は愛着を感じる動物を献げなければならなかった。
ヘブライ9:22
使徒2:36-37
ペテロの説教に、ユダヤ人は献げ物のことを理解していたからすぐに反応できた。
イエスは別次元の完璧な献げ物。
ヘブライ9:26B
ヘブライ9:12
ヘブライ10:10
イエスはたった一度で旧約の世界をひっくり返し、自らを聖なる生贄とした。
ヘブライ10:11-14
毎回家畜をささげ、罪の赦しのありがたみを感じていた。
私たちはイエスがただの一度で贖ってくださった。
それこそイエスの十字架の恵み。
完全なもの。
でも、私たちには不健全な声が聞こえて来る。
もうできない、自分のせい。
そして毎日動物を献げるような、罪悪感がある生活をしてしまう。
今日、正直どのような状態ですか?
私たちががどんな状態であろうと、イエスがただ一度献げられた事実は変わらない。
ありえないほどの恵み。
イエスが献げ物になってくださったことを覚えましょう。
ポイント2:だから私たちも献げたい
ローマ12:1
私たちは神の家、と先週の山崎牧師の説教で話された。
そのような話を聞くと、まずコミットメントが求められているように感じてしまう。
恵みよりも真理。
別の聖句、自分の体は買い取られたから神様のものと書いてある。
それではずれていってしまう。
マタイ9:13a
彼ら徴税人や罪人たちを見て、哀れみを持つことができなかった弟子。
イエスはホセア6:6を引用して返した。
憐れみ、いい業、愛、忠実、忠誠
神様が喜ぶのは生贄を献げる行為ではなく、憐れみと愛と忠実の心。
日本人、犠牲を尊ぶ。
やらないといけない、義務感、犠牲、ハードワーク
残業を正しいものとする。
でも、犠牲で献げ物をすることが増えると疲れて喜びがなくなる。
こんなにやっている、他の人はわかってくれない、やっていない。
アベルとカインのようになってしまう。
アベルのように完璧なものを献げないといけないとプレッシャーを感じてしまう。
でも、神様はアベルの献げる心に目を留めた。
私たちはしないといけない、と思ってしまう。
何を献げるか?ではなく、なぜ献げるか?
WHATからWHYに。
自分に問いかけてもらいたい。
クリスチャンになってから期間が短い人は、評価されたい、よく見せたい、義務感からやっていませんか?
期間が長い人は習慣、ルーティンになっていませんか?
弟子人生、いい動機でできない人もいる。
やらせてください、という心でしょうか?
昨晩のWhat’s Going Onのヨンミンさんのシェア、圧倒された。
私には到底意味のわからない内容。
両親を知らずに育ち、孤児院。結核にもなった。
そんな人が日本に来て弟子になった。
結果を知っているが、この人は本当に弟子になれるのか?と思った。
神様はどのようにこの人を癒すのか?と思った。
神様が父になってくれたとヨンミンさんは言っていた。
今、ヨンミンさんが神様にどのような思いで献げているのかきいた。
「僕は献げているつもりは全くない。
受けた恵みが大きすぎて、他の人にも味わってもらいたいだけ。
数年前には心臓病を患ったが、それによって伝える確信が深まった。」
と言っていた。
献げるのではなく、やりたくて仕方がない。
与えられた恵みを無駄にしたくない。パウロのように。
神様がここまで与えてくれた、という確信があれば献げたいと思える。
今でも変わることができる。
もう一度献げることができる。
やらないといけない、ではなく。
家族を知らずに育った人が神様を愛する人になっている。
神様はすごい。
みんなで、恵みを受けたものとして献げる人になっていきましょう。
1ペテロ2:5
私たちは全員が聖なる祭司。完全なもの。
完全な献げ物をする必要はない。それはイエスだけ。
私たちは罪人、パーフェクトでなくて良い。
一緒にイエスの恵みを覚え、献げる教会になりましょう。