『何が主に喜ばれるかを吟味しなさい』
先週、東日本大震災10年のメモリアルイベントがあった。
先月、東北地方に大きな地震があった。
その際も日本全国から励ましのメッセージをもらった。
今も仙台に止まっていられるのは、神様の恵みとみなさまの祈りのおかげ。
神様が仙台大きな業を成し遂げてくださること信じている。
皆様のサポートに感謝している。これからもよろしくお願いします。
2021年、フィリピの信徒への手紙からパウロの心を学んだ。
そして引き続き、この数週間エフェソの信徒の手紙から神様の輝かしい恵みなどを学んだ。
このような学びの中で、私たちは何者であるか、神様がどれほど愛しておられるか考えさせられた。
自分の弱さ、問題よりも神様の愛に目を向けられるようになった。
作り変えられる動機が与えられた。
神様の愛と恵みが無限に降り注いでいることを感じ、満たされることの必要性を学べた。
エフェソの信徒への手紙は、神様の愛を思い出す手引きのようなもの。
一緒にこの学びを深めましょう。
エフェソ5:1-4,8-10
今日の説教タイトル「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」は、10節の言葉からとった。
吟味するというのは、「テストする」「証明する」という意味。
科学者は必要な結果を得るために何度も実験を繰り返す。答えが出るまで。労苦が伴う。
様々なことにトライし、失敗から学ぶ。
パウロはどうすれば神様を喜ばすことができるか、考え、期待し、失敗しても励まし続けている。
実験を続ける科学者のように繰り返し、頭で考えるだけでなく行動した。実践した。
朝、目が覚めた時に今日も何をして神様を喜ばせるかを考えるだけでワクワクする、そんな生活はどうでしょうか?
自分の人生を通して神様を喜ばせられることがどれだけ素晴らしいか。
でも、現実の日常はその想いから遠く離れている。
朝起きると、昨日やり残した仕事、今日やるべきことに心を奪われる。
一つ一つのことに奔走していると気がつけば1日が過ぎる。
何が神様に喜ばれるか、大切な教えの実践ができない。
ポイント1;神に愛されている子供
エフェソ5:1からとった言葉。
今日礼拝参加されているみなさんの中には、親となって子供がいらっしゃる方が大勢いると思う。
でも、神様の前では皆子供。
私たちは信じられないほどの神様の愛で愛されている。
あなたは神様の子供であるとどれほど実感していますか?
神様が父であること、どれほど実感していますか?
2月の地震の際、妻が私の父に電話した。電話に出なかった。
携帯にメッセージを残した。「私たちは無事です、心配しないでください」と。
メールが後で返ってきた。「よかった、我が子よ。連絡ありがとう。元気に過ごしておくれ。愛している。」
愛しているの後はハートの絵文字が3つ。父の前では私は何歳であっても子供。父の愛を感じた。
父の存在の心強さを改めて実感した。
父は完璧ではない。
愛し、心配してくれていること、簡単ではない。
パウロは神様が天の父、お父さんであることを言っている。
いつか肉の父がこの世を去っても、天の父が永遠にそばにいてくださる。愛してくださる。
この事実は完全に私の心を変えてくださる。
私たちは神様がお父さんであること、どれほど実感していますか?味わっていますか?
父の愛の広さ、長さ、高さ、深さをどの位感じていますか?
神様がお父さんであること、実感できていますか?
神様の愛をもっと感じることができたら、素直に受け止められたらどれほど素晴らしいですか?
私には兄が一人いる。2歳年上。
兄の背中を見ながら生きてきた。
兄はとても良い性格の持ち主。そして、勉強もできる。
私は何をやっても彼に勝てない、と小さい頃から思っていた。
兄のようになれなければ、親に愛されないと思っていた。
ありのままの自分が愛されるわけでない。
愛されても、兄に比べて小さい愛だと思っていた。
クリスチャンになってからもそのような感覚があった。
私が作り上げた結果次第で愛される、という歪んだ見方の影響によって、神様の愛を誤解した。
素直に聖句を捉えられなくなった。
過去の自分に手紙を書いた。
神様の言葉が聞けるように戦った。
正直に心を出せるように、周りの兄弟姉妹に助けてもらった。
神様が私を愛してくださること、以前より素直に受け止められるようになった。
私が変えられたのは、神様がイエスキリストを通して、ご自身の愛を示してくださったから。
大きな愛で神様に愛されている子供であること、示してくれた。
私は自分がどれほど弱いもので、罪人であるかを知らない。
聖書は私たちが罪人であると同時に、神様に愛されている存在であるかを教えてくれている。
神様が私たちの父であること、忘れないようにしましょう、。
お父さんである神様を喜ばせることをしましょう。
ポイント2:愛によって歩む
エフェソ5:2からとった言葉。
キリストの模範に倣って愛によって歩むよう、パウロは言っている。
3-44節で淫らなこと、卑わいな言葉などについて「ふさわしくない」と書いている。
なぜこのようなことをしてはいけないと説明するため「ふさわしくない」と書いたのでしょうか?
「ふさわしくない」とは、「Fitしない」という意味、
服を買いに行くと、試着してFitするか、似合うか確かめる。
Fitしたら買うし、しなければ買わない。
パウロがここで話しているのは「行わないように」ではない。そもそもとして「ふさわしくない」と言っている。
神様に愛されている者に似合わない。ふさわしくない。
聖なる者にふさわしいことに心を注ぐように言った。
キリストの模範に倣って歩むように言った。
「愛さなければならない」ではなく愛に満たされた時に心から愛する動機が出る。
愛によって愛に生きる。
それこそが神様が喜ぶ習性。
仙台姉妹のことをシェアしたい。
2人の独身の男性に神様を伝えたい、と手作りでお菓子を届けた姉妹がいた。
心のこもった贈り物を届けた。
この人たちと繋がるために、心を尽くした。
励まされた。
愛を誰かに分け与えたい、
キリストの模範に倣って、どのように実践するかを考えるきっかけをもらった。
愛によって、愛に生きましょう、。
東日本大震災があった10年前から、絆という言葉をよく聞く
困難に直面すると、何が本物か考えるようになった
世界中が困難に直面する今、何が本物かを考えるきっかけが与えられている。
パウロが2000年前にこの手紙を書いたときに、この困難を想像していたわけではない。
しかし、どんな時代でも神様を喜ばせることが価値あるものだとパウロは知っていたと思う。
神様の愛はどんな時でも変わらない。
何が主に喜ばれるか吟味しましょう。
神様に愛される子供であることをどのように受け止めているのか、考えてみましょう。
愛によって歩むことについて、あなたは何ができるか考えてみましょう。