『主につく者』
スライドはこちらから→20201115 主につく者 モーセシリーズ7
皆さんおはようございます。
今日は出エジプト記32章から一緒に学んでいきたいと思います。
タイトルは「主につく者」です。
出エジプト記は様々な奇跡のオンパレードです。
イスラエルの民は神様から直接大きな奇跡を目で見て体験してきました。
皆さん自分の目の前で海が割れたら、信じますよね?
さぞ、確信が強まり神様が望んでおられる者に造り変えられたと皆さん思いませんか?
残念ながらそうではないです。
32章における私のイメージはスターウォーズです。
特にEP1からEP3はアナキンスカイウォーカーがダースベイダーに変わっていく過程を表しています。
「恐れはダークサイドに通じる。恐れは怒りに、怒りは憎しみに、憎しみは苦痛へ。」とありますが、
今日の箇所はまさにこういうイメージです。
人は恐れや不安によって本当に大切なものを簡単に見失ってしまうということが32章では書かれています。
そしてこんなタイムリーなことがあるのかと思えるほど、私が今年直面したすべてがここに網羅されていました。
一緒に深めていきたいと思います。
出エジプト32:1-6
モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、
「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」
と言うと、アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」
民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。
彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。
すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。
アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。
彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。
民は座って飲み食いし、立っては戯れた。
・誰に頼るべきか?
この時モーセは神様から十戒を直接授かるためにシナイ山に登っていました。
モーセがなかなか下りてこないので、民は不安になりました。
不安にとりつかれた民はなんと自分にとって都合の良い神々を造ろうとします。
何でこんなことをするのかと思うかもしれません。
民は本当の神様を見失っていました。
私たちにも当てはまるのではないでしょうか?
不安に陥った時、恐れが生じたとき、まともな行動できますか?
冷静に物事をとらえられますか?
不安になったときに自分にとって都合の良いやり方、方法、スタイル、が出てきませんか?
または、神様を自分にとって都合の悪いところを抜きにした神様にしていないでしょうか。
それらが金の子牛です。私たちは形ある像こそ造りませんが、心の中に自分の金の子牛を造っていないでしょうか?
ポイント1:自分の金の子牛
・治める者の責任
民はモーセの代わりの指導者アロンに像を造ってくださいとお願いします。
そのアロンも民の主張を受け入れます。
というかアロンは受け入れちゃダメでしょう!なにやってんだよ!と言いたくなってしまいます。
アロンは本来であれば、それは間違っていると明確に伝えるべきでした。
ここで伝えていれば、32章は2節で終わりだったかもしれません。
なぜそれが出来なかったのでしょうか?
アロン自身も本当の神様を見失っていました。
民に伝えるべきことを伝えないで、民たちのいいなりになって、民の要求を受け入れてしまいました。
実はこのアロンは私自身の姿でした。
私は今年に入りある出来事を通して自分の罪に直面しました。
それはまさに受け入れ過ぎでした。
私はそれに全く気付いていませんでした。
私は幼少期に両親に何かと受け入れてもらえず、孤独で、自由がありませんでした。
もしも親になったら絶対にこのような親にはならないと子供心に決めていました。
息子を授かり、私にとって息子は実は幼いころの自分自身の姿に映っていました。
息子には私のようになってほしくないという不安からの強い思いが、受け入れすぎ、信用しすぎとなり、成長の妨げとなっていました。
実は妻には私の傾向がよく見えていて、指摘してくれてはいましたが、私からは妻が偏っているように見えていたので、あまり聞く耳を持っていませんでした。
また、息子との関係は特に悪くないと思い、あえて細かく誰かに見てもらうこともしていませんでした。
私の関わりが息子の成長を妨げてしまったと分かった時、ただ唖然として、
時を戻せるわけでも無くて、後悔してもしきれない思いに支配されました。
そこで周りの人の助けを借りて、立ち止まって、それがどこから来ていて、
何が自分の罪なのか、深く掘り下げました。
明らかになったことは、私が幼少期に受けた根深い親の支配まだまだあり、
そこからくる思い込みと高慢さの罪です。
私は自分にとって都合の良い神様を造っていました。
息子そして家族に謝罪し造り変えられる決心をしました。
そして日々根深い支配を締め出す取り組みをしています。
私たちは特に不安や恐れから様々な自分にとって、都合の良い金の子牛を造り出してしまいます。
それらは本物の神様ではなく、偽物です。
惑わされ支配されないようにする必要があります。
私たちの周りにはたくさんの偽物が蔓延しています。
皆さんは本物と偽物の違いが分かりますか?
見分けがつかないです。
偽物は私たちを騙します。
そして偽物には何の価値も力もありません。
気を付けなければいけないです。
偽物に支配されてはいけないです。
ポイント2:偽物を滅ぼす
出エジプト32:19-20
宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。
モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。
そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。
・罪は神様との約束を壊す
山から降りてきたモーセは若い雄牛の像と民たちの行いを見て神様の手によって十戒が刻まれた石の板を投げつけて壊します。
神の直筆サインですよ!レアすぎます。
ただ感情的になって壊してしまったのでしょうか?
そうではないです。それは、人の罪は神様との約束を粉々に破壊するという意味が込められています。
粉々になった石の板は一体誰のためのものだったのでしょうか?
神様がどのような思いでこの石の板に十戒を刻み付けたのか、
また石の板を破壊したのは実は民たちの身勝手な行いだということ知る必要がありました。
罪は神様との関係を粉々に破壊します。
それだけではなくて、夫婦関係、親子関係、すべての関係を破壊します。
そして私たち自身も破壊されてしまいます。
・偶像にはなんの力もない
そしてモーセは次に、金の子牛を火で焼いて粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませます。
それを飲んだ民は変わりましたか?超人ハルクのようになりましたか?
何も変わらないです。
もしかするとお腹を壊したのかもしれません。
何も変わらないです。
私は偶像は跡形もなく滅ぼす必要があるという強いメッセージをここから受けました。
出エジプト32:25-28
モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、
敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、宿営の入り口に立ち、
「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。
レビの子らが全員彼のもとに集まると、彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。
『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」
と命じた。レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。
その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。
・勝手なふるまいがもたらすもの
結局、民とアロンは勝手なふるまいをしたわけです。
勝手なふるまいとはヘブライ語では放置する、放任するという意味があります。
アロンはモーセがシナイ山から下りてくるまで、民の状態に対して放置し放任し続けます。
何とかしなければと思ってはいたのかもしれません、でも実際、何もしませんでした。
特によくないと分かっていながら、そのままにしておくことが、いかに人を神様から離れさせ、命を奪うものになるのかということです。
私にも「放置」と「放任」がありました。
今年、夫婦関係において明らかにコミュニケーションが足りていませんでした。
夫婦がお互いの一致無くしてより良い家庭を築いていくことはできません。
むしろ一致のないことで家族は健全さを失います。
私の家族はそのような状態でした。
また、すぐに解決させない。すぐに和解させない。すぐに責任を取らせない。
それらは完全に私たち家族の関係を壊していくものでした。
まさに放置や放任が私たち家族の悪い文化となっていました。
放置や放任を一新するために必要だったものは健全な戒めでした。
戒めは痛いです。痛くない戒めが、どうしてこの私の凝り固まった心を変えられますか?
愛からくる戒めであれば、また神様からくる戒めであれば、痛さの中に必ず愛を感じます。
それが間違いなく私たちを悔い改めに、メタノイアに導きます。
罪に支配された民たちの状態を一新させたのは、モーセの戒めでした。
最近私を戒めてくれる人があまりいないです。
遠慮しているのか、近寄りがたいのか、話しにくいのか、怖いのか、言っても無駄と感じているのか、たぶん全部当たっていると思いまますが、もしそうであればそこも含めて私は変わる必要があります。
いずれにしても私はまだまだ変えられる必要があります。
遠慮なく戒めをお願いします。
すみません、ここぞとばかりにこの説教の後、皆さんで一気に来ないでください(笑)。
せめて準備させて頂ければと思います。
改めて私は神様に立ち返り、更に造り変えられていくよう取り組んでいきます。
改めて、私の家族に関わってくださっている多くの人に感謝をしたいです。
本当にありがとうございます。
皆さんは今、放置、放任しているものはありませんか?
放置、放任している限り、私たちは何も変わりません。
私たちは変えられていくものです。
今のままでいい、特に変わらなくてもいいという思いがあれば、あなたは偽物の神様を見ています。
あるいはあなたが神様になっています。
これは野球のグローブとバットです。
左が新品で右が使い込まれたものです。
私の父は神奈川県で有名な高校の野球部でした。
まさにこの右側のように使い込まれて変形した父のローブとバットが家にありました。
小学生の私にはただの汚い変形したグローブとバットでしかありませんでした。
父の目的は甲子園で優勝することでした。
そのためには、より自分が良いプレーができるようにグローブを変形させて自分の体になじませ、体の一部となる必要がありました。
また一本でも多くヒットを打てるようにバットのグリップを削って自分の手になじませる必要がありました。
父の道具は父の目的を達成するものでした。
そしてその道具には目的を達成したいという父の思いが現れていました。
私たちにとって働いてくださる神様がプレイヤーで私たちは道具です。
私たちは神様がよりベストな働きができるように造り変えられていく者です。
神様から見て左側の道具は偽物です。
なぜか。表面的にきれいで、見た目は良いかもしれません。
でもプレイヤーである神様になじんでないです。
自分を変えないで、自分のスタイルで、だから伝わってくるのは自分の思いです。
神様の思いが左の道具からは伝わってこないです。
だから人が変わらない。
人を変えるのは神様だからです。
この教会には偽物の神様がいます。
どこにいるのか先ずは自分の心に聞いてみてください。
わたしはこの教会から偽物の神様を滅ぼしたいです。
・主につく者とそうでない者
モーセは「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言います。
私たちは罪を許しておきながら、主につくことはできません。
私たちは主につくのか、そうでないのかはっきりさせる必要があります。
これは28年前、私が訪問者として初めて聖書学び会に参加したときのイメージ画像です。
ある偶像だらけの喫茶店での聖書学び会を昨日のことのように覚えています。
当時学び会をリードしていた人がアイスコーヒーを指さして、
あなたの心はこちらですと私に言いました。
「その意味が分かりますか」と聞かれて、「分かりません」と答えるとその人は、
「あなたの心は罪だらけで真っ黒ということです」と言いました。
初めて会った人からあなたの心は罪だらけと言われて、
超ムカついてもう二度と参加しないと思って帰ったのを覚えています。
そのあと何が起きたのか話すと長くなるので、興味のある方は個人的に教えます。
ちなみに当時その席にいた人が今この教会に2人います。
ムカついて帰ったあと思い出したことですが、その時リードしている人はこうことも言っていました。
アイスコーヒーと水を並べて、「人はどちらか、中間はない、罪と赦し、人はだれでも赦しによって水のように純粋になれる。
そのことが聖書には書かれている。」と。
なぜか覚えています。そしてこの言葉は間違っていません。中間はありません。
私たちは今でも神様に問われています。
今日、改めて皆さんにお聞きします。
皆さんの心は水ですか?アイスコーヒーですか?
そして皆さん自身は主につく者ですか、そうでない者ですか?
主につく者とはヘブライ語で「神の栄光を熱心に求める者」という意味です。
皆さんいっしょに神の栄光を熱心に求める教会に変えていきましょう。
ありがとうございました。