『モーセの歌』
スライドはこちらから→20201206 モーセの歌 モーセシリーズ10
今年のクリスマスのテーマ:『真実の平和』
12月は3週間、これについて一緒に考えましょう。
モーセは約束の地に向かって40年、民たちと共に歩んだ。
今日は彼の晩年に作った歌から学びましょう。
申命記31:30-32:4
『モーセはイスラエルの全会衆の耳に、次の歌の言葉をことごとく告げた。
天よ、耳を傾けよ。私は告げよう。地よ、聞け、私の語る言葉を。
私の教えは雨のように降り注ぎ 私の言葉は露のように滴る。
若草の上に降る小雨のように 青草の上に降る夕立のように。
私は主の名を呼ぶ。 栄光を私たちの神に帰せよ。
主は岩であり、主の業は完全で その道はことごとく正しい。
主は真実の神で、偽りがなく 正しく、まっすぐな方』
モーセが人生の最後に伝えたかった確信とは?
ポイント1:真実の神
最初に伝えたのは、神様の性質。
ことごとく正しく、真実な方。
注目したい言葉は、「主は岩」。
モーセは神様のことを岩とたとえた。
最初には何度も岩が出てくるが、モーセが一番最初に神様を岩にたとえた。
申命記32章には何度も「岩」が出てくる。
歌の大きなテーマとなっている。
神様が「岩」Rock。
The RockとGoogle検索すると一番最初に出てくるのはドゥエイン・ジョンソン、あだ名がthe Rock。
筋トレする人なら憧れるような強靭な肉体。
しかし、モーセの岩のイメージは実はそのような硬くて強くて、というイメージではない。
モーセたちが彷徨っていた砂漠には、岩場の大きな谷が幾つもあった。
岩場は、敵から身を守ってくれるところ、日照りから守ってくれる場所。
ただ強いだけではなく、イスラエル40年間をずっと守ってくれたのが、神様の存在。
救いの岩、見捨てない岩、守ってくれる逃れの岩。
神様は保護・守り・避けどころ。
わたしたちはそのことを考えていますか?
神様によってずっと守られてきた、それがモーセの確信だった。
保護される場所、安心できる場所は、わたしたち生き物にとって、中核的なニーズ。
最近ある人と過去の傷について話している。
いじめ、家族からの虐待の傷。
ある人が言ってくれたこと。
過去に起こったことについてわたしたちは変えられない。
しかし、過去のストーリーを変えられる。
もし、そこに自分のことを守ってくれる人がいたら、いじめられたとしても、「守ってもらったストーリー」になるということ。
「おまえがやっているのは間違っている。彼に指一本触れさせない。俺が守る。」
そのように声をかけて守ってくれる人がいたら。
癒されるには、そのようなプロセスが必要。
イスラエルの民たちは乾ききった砂漠を彷徨った。
神様が日照りや渇きから、敵から守ってくださった。
難しい問題が色々あった。
モーセはその苦労や自分のがんばりを歌にはしなかった。
神様に何度も保護されて、助けられたことを実感する歌だった。
わたしたちの人生も同じよう。
ときに日照りが続く。元気に生きようとしても、いつの間にか乾いている。
何もない砂漠を歩いているように感じるときがある。
自分よりも強い敵に囲まれていると感じるときもある。
何歳であっても、何年クリスチャンとして歩んできても、守られる必要がある。
「あなたには価値がある。」と認めてくれる存在。
避難できる場所。それが神様。
わたしはこの聖句を読みながら、自分が保護されている、守られているという感覚が少なすぎると感じた。
自分でコントロールしてしまう。それはある兄弟から助けてもらうときにも言われた。
神様を信頼して歩んでいると思いたいが、本当には神様を理解していないと思った。
自分の本当のニーズを見ずに、脆弱にならず走ってしまう傾向がある。
岩を忘れたイスラエルの民のよう。
保護して守ってくれる相手がいても、自分たちが忘れてしまうと、求められない。
高慢な罪。
神様が自分の保護者であり、助けてくださるといつも覚えていないといけない。
モーセは、この確信を謙虚に神様を求めることでつかんだに違いない。
神様から保護されて、守られて、助けられている。
その感覚がないと、高慢になったり、脆弱になれない。
今造り変えられようとしている。
10年間のキャンパス担当の役割を降りた。お祈りしていてください。
主は岩、the Rock。神様は私たちの保護・守り・避けどころ。
それを忘れないでください。
避けどころ=避難所。 避難するのは、自力でできないと認めているから。
手放して信頼していきましょう。
ポイント2:真実のない子ら
申命記32:15-20
モーセは晩年、まず神様の性質を話した。
しかし、もう一つは、導かれた民たち、つまり、人間の性質について語った。
人間の性質とは何か? 「真実のない子ら」。
人生の最後で、民たちのひどさを歌にした。皆さんならどうでしょう?
そのようにしたいと思いますか?
「救いの岩を侮った。いとうべきことを言って神を怒らせた。」
モーセは真実を一切濁らせなかった。
真実である神様。
真実でない民たち。
モーセが岩をたたいて、水が出た。
民たちは潤された。
次に岩をたたくのではなく、口で命じるように言われた。
モーセは怒って従えなかった。おそらく40年で最大の失敗。
岩は彼にとって、約束の地へ入れなかったと思われる罪に結び付く象徴でもあった。
私は最近、自分が本当に罪人であることを感じている。
たくさんの助けをもらうほど、自分が罪でいっぱいなのかを実感する。
いままで助けをいかにもらっていなかったか。
そして愛のなさ。寄り添わないところ。
回避傾向でネガティブなところから逃げる。
メタノイアしているつもりが、繰り返してしまう。
妻に対していろんな思いがあった。
理解されていないと言われたので、あなたは自分を理解していないじゃないかと言ってしまった。
ある人に相談したら、「あなたは奥さんのことを神様の愛で愛していますか?」とシンプルに聞かれた。
誓いをした、一番身近な人でさえ、このように愛せなくなってしまう。
わたしはこの後も何度も謝罪する必要があると思う。
しかし、これはよいこと。
真実の神様を見ると、いかに真実でない自分たちが真実の神様を必要なのかがわかる。
モーセはさらけ出した。
いかに自分たちがひどいのかを。
そして、真実の神様を。
罪を認めるには、心に向き合わないといけない。
そしてそこにエネルギーを使う。
しかし、神様のその先を見ているのか?
なぜ神様を心から信頼していないかというと、
自分が罪人だからではなくて、どこかで、自分の罪を認めていない、中途半端なところにいるからではないか。
本当にみっともなく、ボロボロだったら、モーセのように真実の神に頼れるのではないか?
弱い者だというのは不十分。わたしたちは罪人であり、どうしようもない。
真実のない子ら。
いかに信じていないかを認めて、さらけ出して、今日一緒に神様を見ていきましょう。
「罪人」であると認めた時、「真実の神様」に出会える。
心から神様に信頼して、罪人であることを認め、一緒に歩んでいきましょう。