今日から10月。今月は「ヨハネによる福音書」から学ぶ。
QTシリーズでも「ヨハネによる福音書」から学んでいる。
※QTシリーズは、教会のホームページにもアップされている。
日本語:
https://tccnet.org/wp-content/themes/tokyo_church_of_christ_theme/pdf/QT_Series_Gospel_of_John_jp.pdf
英語:
https://tccnet.org/wp-content/themes/tokyo_church_of_christ_theme/pdf/QT_Series_Gospel_of_John_eng.pdf
なぜ今ヨハネの福音書か?
・「向き合う」から「イエスのように変えられる」にフォーカス
・QTシリーズをやっていますか?(翻訳メンバーに感謝)
既婚者、宿題の取り組み素晴らしかった。
イエスのように変えられるためには、イエスに触れられることが必要。
今月は、講解説教を取り入れる。
説教には、
- 主題説教
- 講解説教
がある。
今まではこの教会では主題説教がメインだった。
わかりやすくてインスパイアリング。
初めて教会を訪れる人にわかりやすい。
説教者の思いが伝えやすい、教会のニーズが伝えやすい。
それに比較して、講解説教は御言葉を深く読み込む。聖書が語りたいメッセージを読み込む。
御言葉を土台にした教会を築き上げるのに有効。
どちらが良い、ではなくてどちらも必要。
ヨハネによる福音書の特徴は?
- 最後に書かれた福音書:AD90-100頃に書かれた
- 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と異なる視点
- 「霊的な福音書」と、2世紀の神学者アレクサンドリアのクレメンスが定義している
他の福音書には出ていない出来事が書かれている。
特別な目的を持って書かれた。
ヨハネ20:30-31
明確に福音書を書いた目的を書いている。
信じる者の霊的な成長を促すこと、伝道のため。
ヨハネによる福音書では、ヨハネは自分自身を「イエスの愛しておられた弟子」と表現している。
共観福音書でヨハネ、と出てくる時は使徒ヨハネ。(他のヨハネは「バプテストのヨハネ」のように表現)
霊的福音書では、「イエスの愛しておられた弟子」。
ヨハネが著した物ではない、という説もあるが、この自分自身の表現からもヨハネが書いたと判断出来ると思う。
ヨハネ1:1-5
QTシリーズは、ロンドンの牧師、マルコム・コックスさんが書いた。ヨハネ2章から扱っている。
QTでは難解な1章に、あえて今日はチャレンジする。
「言(ことば)」
言=ロゴス(希) ※ギリシャ語
- ギリシャ人にとっては、論理、原理を意味する
- 旧約聖書においては、命の源としての人格(イザヤ55:11)
なぜ、ヨハネは「キリスト」ではなく「言」という表現を用いたか?
AD90年、キリスト教は異邦人にも広がった。
ユダヤ人はキリストがメシアであることはわかる。
異邦人は分からない。メシア思想を知らない。
そのため、「言」という表現を用いた。
この表現を分かりづらいと考えるのは、現代人の感覚。
「ロゴス」はギリシャ哲学の言葉。
原理、論理を意味する。
旧約聖書では命の源。
ヨハネがキリストを現す「言」
- 「言」 ヨハネ1:14
- 「命の言」 1ヨハネ1:1
- 「神の言」 黙示録19:13
ヨハネ1:3
キリストの神性、キリストの造り主性。
→私たちは作られた者、卑しい人間に過ぎない。これが信仰生活の原点。
「命」は3つの命を意味する
- 肉体の命
- 霊的命
- 永遠の命
- 「死」=神の呪い
- 「命」=神の祝福
- 「光」
ヨハネ1:5
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(新共同訳)
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(新改訳)
「理解しなかった」、「打ち勝たなかった」と、訳によって内容が違う。英語のNIV聖書では「理解しなかった」となっている。
原文から確認しても、どちらにも読み取れる。
個人的には、「打ち勝たなかった」が正しいと思っている。ヨハネ16:33でイエスは「私は既に世に勝っている」と語っているから。
このように、講解説教は御言葉を深く読み込むもの。
理解するためには、皆さんの日々のQTが大切になる。
「言」に立ち返る。
ヨハネは「イエスは言であった」、と語っている。
イエスを信じる者は、イエスの語る「言」を信じる。
聖書の中で、百人隊長(ルカ7:1-10)はイエスに信仰を賞賛されている。
百人隊長自身は、イエスに会っていない。
「おっしゃってください、一言おっしゃっていただけれ癒されます」と使いに言わせた。
イエスの「言」に癒しの力があると信じている。
「2000年前に生まれていれば、イエスと会って信仰を増せた」と私たちは思うことがある。
でも、会うかどうかは関係ない。会っても信じなかった人もいる。
今の時代でイエスを信じない人は、イエスの存在を肉眼で見ても信じられないと思う。
「言」は大切。
私たちはどんな「言」を聞いていますか?
普段どんな「言」が聞こえて来ますか?
過去に聞いた不健全な「言」があなたを支配していませんか?
聖書の「言」を信じて従えていますか?
真理はあなたを自由にする、それがイエスの言葉。
自由を感じていないなら、イエスの言葉を心から信じていないから。
ヴィンセントさん、東京ジュビリーでたくさん素晴らしいコメントをくださった。
交わりに感動して涙が出て来たなど。
彼が、より成長出来るように与えてくださったフィードバックの中に「この教会のメンバーは自己認識が成長しているが、自信がない」というものがあった。
御言葉によって変えられた人生から来る自信。
自分のスキーマを認識した後は、神様から変えられるステップが必要。
そのためにヨハネによる福音書のQTを学んで欲しい。
イエスの「言」には力がある。実感していますか?
私たちの会話はスキーマで終わっていますか?それとも変えられていますか?
心から変えられる喜びを実感していますか?
交わり、学び会における会話でどれほど聖書の言葉が出て来ますか?
礼拝の後、一言も聖書の言葉が出ないことがありますか?
最近、私は同じ聖句ばかりシェアしている。
ヨハネ9:3
今年の東京ジュビリーのパンフレットに、ジョージ・ガーガナスさんの言葉、彼を変えた聖句が書かれている。
私が自分を変えた聖句として、この聖句を挙げたい。
今年、娘を授かった。
この聖句に価値観を変えられたことが嬉しい。心が守られている。
一年前には、ダウン症の娘の父親になると想像していなかった。
そして、私は障害のある人を愛せると思っていた。クリスチャン、牧師なので。
でも、身内になると違う。
でも、ヨハネ9:3が私の心を捉えて離さなかった。
そしてその確信によって、変えられている。
世の中の価値観からしたら全く違う。
でも、神様なら変えてくれる。奇跡を起こす。
神様が、私を選んで奇跡を起こしてくださると信じられた。
この御言葉のおかげで今の遁所家がある。
妻の美香の人生を変えた聖句は、マタイ28:20(だと思う)。
彼女は難しい家庭環境で育った。父親が家を出て行った。
長年、「自分を愛してくれる人は去っていく」、という声にやられていた。
クリスチャンになった後でもその声は聞こえ続けた。
そこで、マタイ28:20で闘った。心を変えられている。
皆さんにとって、心を変えられている御言葉はありますか?
心を変えられたいと留まっている御言葉はありますか?
美香と娘とのやりとりで学んだこと。
娘は今月1歳になる。
美香は娘にイライラしている。
ミルクをあげる時、娘が飲み切れる実力があるが飲まない。我が強い。
凄く美香がイラついているのを見ながら、この聖句を思い出した。
1ペトロ2:2
美香は真剣にイラついている。母親ならでは、栄養あるものを飲まない心配から来るもの。
霊の乳、御言葉を飲まないことは、神様を心配させる。
神様の思いは、命だからこそ飲んで欲しい。
飲んで成長して欲しい。
ベストを尽くして飲んで欲しい。
今日、神様はあなたの霊の乳の飲み方について満足されていますか?
気分が乗らないから霊の乳を飲まない、というのは神様からすると心配になる態度。
ヨハネは語った。「言」は共にあった。神であった。
イエスの言葉を信じる者は、命を与えられる。