『主の影響を映し出す』
礼拝は、建物とは関係ない。
集まれなくてもSGでの助け合いをする姿、励まされている。
この中でも神様は働いてくださっている。
聖書勉強がビデオ通話で行われて、バプテスマ待ちの人もいる。
ポイント1:真実を隠す覆い
2コリ3:12−18
キリストによって自由になる。
顔の覆いが取り去られ、鏡のように主の栄光がかがやく。
その特権と恵み、どれほど人生に希望を与えて貰えるか。
モーセ、シナイ山から下山した時光り輝いていた。
民がモーセを見ることが出来なかった。
そのため、覆いを付けた。
神様と話す時だけ、覆いを取った。
覆い:カバーする、隠すという意味。
→本来のメッセージや真意を妨げる
→真実を隠す覆い
覆いがかかると何が起きますか?
何も見えなく、読めなくなる。理解出来なくなる。
本来のものを味わえなくなる。
私はサッカーでのポジションはゴールキーパー。
ゴールキーパーがシュートを防ぐために必要な要素、ボールスピード、軌道、回転をしっかり見ること。
大学に入る前、一年浪人していた時に社会人サッカーをしていた。
シュートを正確に止められない。
スピード、軌道、回転に慣れない。
大学受験をしている間にサッカーをしておらず、感覚が鈍ったのかと思った。
でも、勉強漬けで視力が落ちていたのが原因だった。
ボールは見えるが、スピード、軌道、回転が見えない。
コンタクトで改善した。
覆いがあると、正しいものが見えなくなる。
モーセが覆いを付けた目的、パウロは「栄光が消えゆくのを見せないため」と解釈している。
この聖句は解釈が難しい。
モーセがここにあるべき栄光を隠した。
それによって、民に同じ覆いが掛かりつつある。
コリントの教会にとって、真実を隠す覆いとは何だったでしょうか?
大きな問題、偽教師、偽使徒。
2コリ11:4
イエスのようで、異なったイエス。
福音のようで違った福音。
コリントの人々、パウロの教えで本来はしっかりと見えていた。
それが偽教師の存在によって真実が隠されて見えなくなっていた。
自分たちに覆いがかけられていることに気付かなかった。
パウロの教えを誤解し、パウロを非難するようになってしまった。
真実を隠す覆いがかかった。
私たち弟子にとても大事なことがあると思う。
私たちも本当は見えているはずなのに、見えなくなってしまうことがある。
信仰があるはずななのに、見えなくなってしまうことがある。
本来、神様を信じて何でもやりたいと思っている。
不信仰という覆いがかかっているのかもしれない。
問題やニーズあるから私たちにそれは難しいのでは?などと思ってしまう。
私たちを通して神様が働くという真実があるのに、希望を持てなくなる。
不信仰という覆いがかかっていると、見えなくなる。
他の人も不信仰の覆いでしか見られなくなってしまう。
あの人は働き手にはなれないのでは?など。
私はずっと、神様は人を救いたいということを信じている。
福音をたくさん宣べ伝えたら多く救ってくださる、と勘違い。
結果が出ないと落ち込む。
収穫が多いと神様は言ってくださっているので頑張る。
でも、結果は変わらない。
自分を通しては神様は働かない、と苦々しい思いを持ってしまう。
自分自身の動機がなくなる。
私が神様を伝えること、御心ではないと感じて覆いがかかった。
不信仰の覆いだった。
パウロが言っている通り、今日に至るまで覆いがある。
取り去って、神様の栄光を映しましょう。
実践1:人生のどこのエリアでどのような覆いがかかっているかを特定しましょう
ポイント2:主に向き直す
2コリ3:16
モーセが主の前で顔の覆いを取り去って話したことを受けての聖句。
これは旧約の時代で特別なこと。
神様と顔と顔とを合わせて話すことはできない。
出エジプト33:11
先日、増田康さんからオフィスに電話があり、話せてとても嬉しかった。
顔と顔を合わせて話せたら、どれほど嬉しいか。
私たち顔の覆いは除かれて、救いを味わえている。
でもこの覆いは、私たちには取り去ることは出来ない。
神様のもの。
どうすれば私たちは主に向き直れますか?
答えはシンプルだと思う。主に向き直る必要がある。
どうすれば良いか?
以前向かって行ったものから、背を向ける。
自分に背を向けて歩く。
時に私たちは難しくしてしまう。
問題を解決しないと、変わらないといけないなど。
神様に向き合おうとしながら、自分に捉われている。
自分に捉われていたら、神様に向けない。
聖書的な神様とは別の、自分勝手な神様像を作り上げているかもしれない。
「このようじゃないと神様は働かない」など、自分勝手な神様像を作ってしまう。
最近、神様に認められたい思いが物凄くあることに気付いている。
必死に努力する。
その結果、認めてくれる人に向き直ることが難しくなる。
神様に向き直れるように、謙虚になれるように、過去の自分に手紙を出すことなどをやっている。
あなたは主に向き直ることができているでしょうか?
聖書的:神様がどのような方かが、あなたの生き方を決める。
自分勝手:あなたの生き方が、神様がどのような方かを表す。
2コリ3:18
まず、パウロは「皆」と言っている。
皆覆いをとりのぞかれる。
過去の状況、年齢、ライフステージも関係ない。
神様に向き直れば、変わる。
神様の栄光を映し出し、神様と同じ姿に作り替えられる。
行動だけではなく、人格、心が作り替えられる。
すぐに変わっていかなくても大丈夫。
生き方が神様の素晴らしさを表すようになる。
私たちには限界があるが、神様は何でもできる。
それを全ての弟子が味わえる。
この神様の言葉に希望を持ちましょう。
希望の神様に向き直りましょう。
ユースで勉強している男の子がいる。
昨年末、罪と十字架の勉強をした。
しかし、自分の罪がイエスをどれほど傷つけているかがわからなかった。
イエスを知りたい、変わりたいと思いつつも聖書勉強の中では「自分はこれをやった」など、自分がやったことばかり示していた。
そうしないと弟子になれないと思っていた。
十字架の勉強でも罪を認めず、やってきたことを証明しようとしていた。
自分に捉われて、神様に向き直れない。
そんな時、ルカ15:4-7の羊の話で変えられた。
神様がこんなに必死に自分を見つけてくださると、偉大な愛に感動し、涙を流した。
そこから必要以上に自分のことを話さず、話を聞く人に変えられていった。
相手のことを気にかける人になっていった。
神様を向く人生を彼は選んでいる。
そして彼の父親も、自分の過去について信仰を持って向き合っている。
育ってきた家庭では、ネガティヴなことを話さなかった。
なので、ネガティブな感情を話さない家庭を作った。
でも、先日自分の過去の大きな傷を息子に涙を流して話す時間を持った。
彼の人生は、主に向き直る人生となった。
以前、その子は父親について何を感じているかわからない、と言っていた。
でも、今はリアルに父親を感じられるようになった。
メタノイアの模範を信じられるようになった。
彼らのために続けてお祈りをお願いします。
イエスは完全に覆いを取り去ってくれている。
今日、自分に背を向けて神様に向き直りましょう。
実践2:自分の生き方にどのような神様が表れているか、家族やSGに聞いてみましょう