40年前、キャンパスでバイブルトークに誘われた。
聖書の勉強を始めた。兄弟姉妹の関係に惹かれた。
暫くして、個人的な勉強だと気づいた。
偽善者の人生、本当のクリスチャンとしての生き方をしていなかったと直面した。
その後、何度も偽善的な罪と直面している。
ダラスの教会では、今年コリントの手紙から学んでいる。
私達は偽善的な罪がある。
話を聞くと東京の弟子と話しても同じ。
人間は基本的に同じ。
長男と話していて、反抗的だった。
しかしあるときに彼は、「イエスこそ、このぐじゃぐじゃな世の中での唯一の解決法だ。」と言った。
本当にそう。
2コリント5:14-20
駆り立てる、支配する。
人は人を駆り立てる、支配することはできない。
実は、バプテスマを受けてから1週間以内に2回も殴り合いの喧嘩をした。
わたしは若いときに怒りの罪があった。
難しい人生があった。母は三度も離婚した。たくさん引越しした。
自分にとって怒ることは当然だった。
怒りがモチベーションになっていた。
しかし、怒りは継続できない。
何十年経って変わり続けた。
愛によってのみしか継続できない。
駆り立てられることはできない。
パウロはそのように言った。
近所、隣人を見たときにイエスが見るように見る必要がある。
キリストの使者、大使、遣わされた者。
もしこの東京の教会にアメリカの大使が来たら大変なことになる。
重要な人。
実は、わたし達が大使。
心を守って、偽善的にならないようにしないといけない。
2重の生き方はいけない。
兄弟姉妹の前で良い振る舞いをし、家や外では全く違う態度ではいけない。
創世記12:3
ユダヤ人も同じ。
神様は祝福したい人を祝福した。
呪いたい人は神様を通して呪った。
彼らを通して世界中のすべての人が、祝福した。
これを考えてみてください。
東京の教会を通して、日本じゅうの人が祝福を受ける。
これはすごいこと。
東京の教会を通して、アジア中、世界中が神様の祝福を受ける。
マタイ15:21-23
テキサス州、西洋文化は個人主義。
聖書は実は東洋文化。
自分と周りの人がいて、イエスがいる。
この聖書の箇所もそう。
1.そういうものだ(It’s just the way you are)
カナンの女性は、2つの壁を越えてイエスに話しかけた。
女性と男性の壁。異邦人という壁。
「主よ、ダビデの子よ、憐んでください。」
彼女はカナン人、外国人。
どこでイエスがダビデの子と知っていたのか?
なぜイエスがどのような方であるかを理解していたのか?
イエスはどうしたか?
イエスが通りかかって話した人は、物乞いやサマリヤの女性でも、答えてもらった。
しかし、ここでカナンの女には一言も答えなかった。
話しかけてられて、答えないのは普通無礼。
しかしこの当時、ユダヤ人のラビに、カナン人の女性が声をかけて無視するのは文化として当然のことだった。
弟子達は黙らせて下さいと言った。
イエスは、「選ばれた家にしか遣わされていない。」と言った。
弟子達は、当然と思った。選ばれた民が優先。
自分と、自分のような人としか遣わされない。
どのように思いますか?
希望がない。
私達は、世の中はそのように偏見を持ってしまう。
対話がない。グループが違う。
イエスは、この二つのグループをどのようにバランスを取ろうとしたか?
カナンの女性には冷たい態度で拒絶した。
しかし、創世記で神様は全ての人を祝福すると言われたのに?
2.これは恥ずかしい。
カナン人の女は娘への想いが非常に強い。
イエスなら助けられると強く確信している。
イエスの前にひざまづいて、泣いて訴えている。
大学生の時に3時間かけて実家へ帰った。
汚い洗濯物をお母さんに洗ってもらうつもりで持って帰った。
家でひどい喧嘩になった。
お母さんが泣き崩れた。
彼女はわたしに洗濯物を投げつけ、「自分で洗いなさい。」と言った。
お母さんがひどく泣き崩れた姿、すごく心に刺さった。
このカナン人のお母さんが泣き崩れたのは恥ずかしい場面。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」
この聖書の箇所につまづいたことはありませんか?
違和感がある。
イエスは、弟子達が思っている偏見、差別を言葉にしてしまう。
必死に助けを求める女性の前でこのような言葉を口にしたら、傷つける。
イエスは、意図があって、弟子達が持っている世の中的な神学を見せる。
神様は全ての人を愛している。
同時に、神様のもとへ引き寄せたい。
わたし達は一人一人価値がある。
信じているなら、最終的に人に現れる。
死後の世界が何もないのなら、殺人、強姦、盗み何をしてもいい。
しかし、ここでイエスは、弟子達に「あなたがたは選ばれた民だと思っているでしょう。そしてこの人は子犬だと思っている。」と言って間接的に弟子を叱っている。
3.この女性はどのように反応するべきか?
弟子達はどのように捉えるか?
この女性は侮辱に対して、侮辱で返すか?
それとも、娘への想いとイエスへの信頼があまりに強いので、別の反応をするか?
彼女は軽いジョークを込めて返した。
「主よごもっともです。しかし子犬もパン屑をいただきます。」
イエスが言った子犬という言葉を使った。
パティ・アサードさんのシェア:
最近神様から学んでいることをシェアします。
イエスの愛や勇気がわかるたとえ話。
わたしは近所の人に福音を伝えるのが大好き。
最近、ガールズパーティーに行った。
ある人に会った。
ちょっと不安になった。
数年間彼女をいろいろ誘ったけど、一度も来ない。
彼女もわたしを何にも誘わない。
本当は彼女を避けたかったが、イエスならどうするかと考えて話しかけた。
「すごく会いたかった。」笑顔で伝えると、ただ彼女が忙しすぎたのが理由で会えなかったとわかった。
さっそく一緒に食事に行く約束をした。
近所の人にたくさん宣べ伝えたいと思い、多くの隣人を家に招いている。
初めて来る2組のカップルがいた。
2日前までにテーブルセッティングした。
しかし、自分の事を準備していなかった。
あるカップルが20分前に来た。
全てを完璧にしようとして、取り乱して、変な空気になった。
でも、神様が素晴らしい時間にしてくださった。
どんなふうに物事がうまく進んでいなくても、イエス・キリストがわたしを愛してくれたように、周りの人を愛する事を学んでいる。
カナン人の女に戻る。
弟子達はずっと彼女を見ている。
イエスはキツいことを言った。
この女性の信仰はすごい。
娘とイエスへの想いが強かった。
イエスは最後に彼女の信仰を褒めた。
今東京で、多くの人は自分が価値ある人とわかりたい。
お父さんと和解したいなど、愛するコミュニティーを求めている。
わたし達は与える側。
自分がどれほど愛されているものと実感してほしい。
その愛を伝えてください。