『人の子は失われたものを探して救うために来た』
質問があります。
皆様、何かを必死に探した経験がありますか?
探すということはこういうことが多いと思います。
一つ目、手元にない。当たり前ですね。
二つ目、どこにあるかわからない。
こういう状況だとパニック、不安、焦りがあると思います。
私は小学2年生の時の、必死に物を探した記憶があります。
それは私が大好きだったポケモンのフィギュアです。
私あまりにもあるそのフィギュアが大好きでどこに行くにしてもずっと持っていました。
ある日事件が起きました。
家に帰ってきて、ポケットの中に手を入れるとそのフィギュアがない。
その前大きな公園でずっと遊んでいました。
パニックしながら公園に探しに行きました。
1日中ずっと探したのですが、見つからず号泣しながら帰ってきたのを覚えています。
そんな可愛い頃もありました。
去年の年末に実家の大阪に帰りました
そうするとおばあちゃんからこのような話を聞きました。
私は子供の頃、こういう遊びをよくしていたそうです。
それはお父さんお母さんと外に出かけたとき、帰り道にかくれんぼをするということです。
結構遠くまで隠れているそう。
親はそれを探してくれて見つかった時は「ここにいたの。見つかってよかった。」と、喜んだふりをしてくれました。
今思えば、私は親に探されてうれしかったのかもしれないです。
自分は大切な存在。
自分は親に愛されている。
そのことを感じたかったのかもしれません。
探してくれる人がいる、それは幸せなことだと思います。
人を失ったものが大切であればあるほど必死に探します。
もし大切でないのであれば、私たちは探さないと思います。
私たち人は、何かを探す人生を歩んでいるのかもしれません。
そして聖書に出てくるイエスキリストも彼の人生を通して大切なものを探していました。
今日の説教タイトルは「人の子は失われたものを探して救うために来た」。
ルカ19:10の言葉です
この言葉はイエスキリストの究極のミッションでした
どうしてキリストは地上にきたのでしょうか?
どうしてここまで愛を示してくれたのでしょうか?
どうして私たちを探すのでしょうか?
それはこの地上に罪と悪が溢れて、心を痛めているからです。
人の心が失われて弱っているのを見ていられないからです。
私たちのことを愛してくださっているからです
いつまでも、そしてどこまでも私たちのことを探し続けてくださる。
一緒に聖句を読んでいきたいと思います。
ルカ19:1-10
以前、ザアカイの視点から話したことがありますが、今日は改めてイエスキリストの視点で話をしていきたいと思います。
今日のポイントは「イエスは失われたものを探した」です。
当時のイスラエルの国はローマ帝国に支配されていました。
そのため、彼らはローマに税金を払わなくてはいけませんでした。
ローマ人は現地の人たちを雇ってその税金を集めていました。
徴税人は自分の財産のためにも税金を集めて暮らしていました。
その同じ民族から奪い取ったお金でお金持ちになっています。
その中のトップがここに出てきたザアカイです。
そのため、同じ民族から、仲間から一番憎まれ、恨まれていたのがこの徴税人です。
でもこの場面でザアカイはイエスを求めていました。
木にまで登ってイエスを見たいという心がありました。
イエスはその彼の心を見て感動したと思います。
そしてイエスは彼に声をかけました。
そして個人的な、そして特別な時間と愛を彼に示しました
彼は癒されて、奪うものから与えるものに変えられました。
イエスに触れると人が変えらます。
ザアカイはイエスを求めていました。
そして面白いのは、この一個前の章でイエスはこのように言いました。
「財産のあるものが神の国に入るのはなんと難しいことか」
次の章では、ザアカイがイエスによって変えられました。
神様の約束はどんな人でも求めるものには与えるということです。
でもこのようにも言うことができるのではないでしょうか。
イエスこそがザアカイを探した。
イエスは彼の名前を知っていました。
もしかしたら、途中で聞いたのかも知れません。
イエスからザアカイに話しかけ、その日の泊まりのアポイントメントまで作りました。
イエスはなぜ、ここまでの思いがあったのでしょうか。
それはザアカイの求めている心に応えたかったからです。
そしてザアカイの心を聞いてあげたかったからです。
ありのままのザアカイを受け入れてあげたかったからです。
5節の「泊まりたい」という言葉、もともとの語源は願望とか義務ではない。
そうではなくて使命、緊急性、必要性を表す言葉です。
使命によって、緊急性があるからしなければならない。
なので、泊まりたかったからとかそういうテンションでは全くない。
先日、日曜日の夜に山崎家で食事会がありました。
盛り上がっていたのですが、その場にふさわしくない音が聞こえてきました。
いびきが聞こえてきました。。。
こたつの中で温まって横になっている兄弟からでした。
礼拝などで疲れていたと思います。
彼から今日はできたら泊まりたいオーラがプンプンしていました。
結局、11時ごろ渋々帰っていきました。
イエスのテンションはそうじゃない。
ザアカイの家に泊まる使命がありました。
イエスは彼をどのように見ていたでしょうか?
ザアカイはは裕福でした。
でも幸せではありませんでした
彼は孤独で、不安で、満たされていませんでした。
同じ仲間から蔑まれて、憎まれていつのまにか神様の愛を求めるようになっていました。
ザアカイは人生の意味を探していたかもしれません
そしてもしかすると私たちもザアカイかもしれません。
深いところでは満たされず、本当の家族関係、本物の友人関係、将来のキャリア、人生の生きる意味を探しているかもしれません。
イエスは「失われた」という言葉を使いました。
「失われる」この意味は「間違った位置にいる」ことだそうです。
本来あるべきところじゃなくて、別のところにいる。
そのときに、この失われているという言葉を使うそうです。
失われた、これは逆を返すと失った人がいるということです。
神様の視点からすると、私たちは一生懸命生きていたとしても、世の罪や患いによって神様を離れていることが多いです。
何よりも私たちを失って、悲しんで、涙を流しているのは天の神様です。
人は神様から離れる時に失われています。
本来は神様と一緒にいるはずだったのに罪によって失われて離れています。
どうすればいいのか?
それは私たちが見つけられて正しい道に戻る必要があるということです。
キリストはそのために世に降りて来てくださいました。
神様との和解という正しい位置に私たちを戻すために十字架にかかってくださいました。
イエスは命を尽くしてまでも私たち一人ひとりを探してくださる方です。
そういう愛と情熱に溢れています。
私たちがここにいるのは、まぎれもなく神様が私たちを探してくださったその証拠です。
1月、私は自分の1年間を振り返る時間を持ちました。
その中で、自分自身は人の救いやミッションに情熱が無くなっているのを感じていることに気がつきました。
何か負け癖がついていました。
なかなか神様の勝利が見られずに、がっかりしていました。
でも次第にそれに慣れて何も感じなくなっていました。
私の心は硬くなっていました。
そしてまた、私の心の中のどこかに満足する思いがあることにも気がつきました。
今与えられている生活、関係、そしスタッフでいること。
そのことにこれのどこかで安心して満足していました。
そこから必死さがなくなって、積極的な思い情熱が私から取り去られていました。
そんな私にとって、このザアカイの聖句は心に突き刺さりました。
「ぜひあなたの家に泊まりたい」
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」
ここに自分と神様の思いの大きな違いがあることを感じたからです。
福音を知らずにいる人がいるのに、自分が良ければそれでいい、そのような罪がありました。
神様の想いに無関心で、自己中心的な私の罪でした。
私は罪を告白して、今年は神様の想いに立ち返る、そう心に強く決めました。
責任感で人に神様を宣べ伝えたいという思いもありました。
でもイエスはそうではなかったです。
純粋な想い、その人に関心を持ち、かわいそうだという思いがありました。
純粋に愛して気にかける、その心がイエスキリストにはありました。
今でもその神様の想いと自分を比較すると圧倒される思いになります。
でも悔い改め続ければ、神様はこんな罪深い私でも用いてくださる。
そのことを信じたいと思っています。
今年は個人的に信仰のブレイクするなる1年に必ずします。
そして皆さんと一緒に人を愛し、人が救われる、祝福される教会にしていきたいです。
まず自分自身からイエスと同じ想いになれるように今願っています。
イエスはザアカイだけではなくて、すべての人を探しています。
私たちもイエスに出会う前、十字架を知りませんでした。
そしてその愛に駆り立てられて、キリストのために生きる決心をしました。
今、私たちにはイエスのようにザアカイを探して愛する心が今日あるでしょうか?
それとも、この周りの群衆のように無関心なタイプでしょうか?
私たちは、自然とこの群衆のようになってしまうことがあるのではないかなと思います。
群衆は言いました。「あの人は罪深いところ男のところに行って宿をとっている」。
これは無関心な対応だと思います。
これはどういうことでしょうか。
これは他人のニーズを気にかけないほど、自分のことを見ている自己中心な態度です。
そしてイエスキリストに向かっていない、交わり、QTや集まりです。
自分の人生が変えられていない、ディサイプリングの時間です。
他の誰かがやってくれるのではないか、そのような無責任な態度だと思います。
クリスチャンの皆さん、今日一緒に自分の心を吟味しましょう。
今年あなたにとって探したいザアカイは誰ですか?
ぜひ心を尽くして、共に愛しぬく人を探しましょう。
私は今年からティーンミニストリーに移ることになりました。
その特権に心から感謝しています。
先日はバレンタインの素敵な時間がありました。
今年のティーンミニストリーは、かつてないほど子どもたちが救われる一年にしたいです。
実際にティーンの弟子たちは、下の子供たちに必死に神様の愛を宣べ伝えています。
昨日のティーン礼拝では、ティーンの弟子たちが下の子どもたちにイエスの愛を伝えるDグループの時間がありました。
励まされました。
私も求めている子どもたちを探して、イエスのように愛するその真っ最中です。
先月イエスの模範にならって、聖書を読んでいるティーンの子どもの家に泊まりに行きました。
普段の生活、家での態度、これを知ることによって本当にその子のことを知る、関わり愛することができると思ったからです。
ぜひあなたの家に泊まりたい、そう言って親に話に行きました。
柔らかい心で「はい、いいですよ」って受け止めて貰いました。
私はイエスではないので、より多くの日数が必要でした。
イエスは1泊でしたが、私は4泊5日の旅でした。
朝は一緒にQTを取って、ご飯を食べてお祈りをしました。
そして夜は、自分たちの過去の話を、心をオープンにして話しました。
また一緒にサッカーの練習に一緒に行ってあげると、心からとても喜んでくれました。
彼の本当の心がハッキリと見えました。
でも一番神様が働いてくださったのは、私の心にでした。
そのお泊り合宿を通し、私の彼への思いが本当に支えられました
私が、イエスのように彼のことを愛せるようにお祈りお願いいたします。
そして彼は今クリスチャンになりたいと心から願ってベストを尽くしています。
私は彼のことを心から誇りに思います。
また、ティーンにはその他にもイエスの弟子になりたいと願って頑張っている子供達がいます。
是非お祈りをお願いしたいです。
神様はユースミニストリーに力強く働いてくださっています。
でもそれは、神様が子どもたちを探しているからです。
今年のユースミニストリーに私は心からワクワクしています。
イエスと出会うと人生が180度変えられます。
ザアカイはイエスに触れて、奪うものから与えるものに変えられました。
この変化は、どのような変化でしょうか?
少し良くないものが、少しよくなった。そういうものではないです。
180度、大胆に変えられる変化です。
私たちは、今日信じる必要があると思います。
クリスチャンにはならない、そのように思っている人がクリスチャンになる決心をする。
長年難しかった親子関係、家族関係、友人関係が完全に変えられる。
長年変わらなかった自分の性格、罪が変えられる。
生きることに絶望していた人が、キリストと生きることに希望を見いだす。
そのような変化だと思います。
人が求める限り、神様必ず答えてくださいます。
それは神様が私たちを探してくださっているからです。
人の子は、失われたものを探して救うために来た。
この言葉は十字架を表しています。
義務ではなくて、使命、緊急性、必要があったからイエス自ら十字架にかかってくださいました。
そしてその愛ですべての人を思ってくださっています。
十字架の愛は、絶対に弱くならないです。
絶対にぶれないです。
今日その愛を覚えましょう。
その愛を動機として失われたものをイエスのように今日探しましょう。
イエスは失われたものを探しました。
イエスを探して求めている人が日本にはたくさんいます。
私たちはそのために選ばれた人間の漁師です。
テーマ聖句(詩編46:11)にある「力を捨てよ、知れ。私は神。」
神様の偉大さを、かつて見たことないほどの愛を今年共に味わいましょう。
今年の終わりに、あふれるばかりの兄弟姉妹が御国に加えられ、私たち一人ひとりの人生が神様に変えられることを共に味わっていきたいと思います。