「儀式なのか、関係なのか」
ゲスト・スピーカー紹介:
ノースカロライナのチャールストン教会のフーバー夫妻。
30年以上の弟子。25年以上フルタイムミニストリー。
先日娘さんが結婚。息子さん2人とともに家族全員が弟子。
ニカラグア、インド、アルバニア、ハイチなどでも説教と支援活動を行なっています。
日光へ行って観光した。
素晴らしかった。でも一番大好きなのは、この教会。
世界中の教会で感じるのは、弟子たちが互いに愛し合っていること。
先程、素晴らしい賛美歌を聴いた。歌詞は分からなくても感動する。
ゼカリヤ7:1-7
ゼカリヤ書は、70年のバビロン捕囚の後に書かれた。
バビロニア人により外国へ連れて行かれて、神様の民が囚人となった。
エズラという祭司によって、エルサレムに戻って来た。
神殿の復興が始まり、最初は良かったが土台で終わってしまった。
高齢の人は、前の神殿が素晴らしかったので泣き叫ぶほどがっかりした。
若い人たちは喜んでいたが、途中でやめてしまった。皆、自分の生活を優先した。
人々は神様に質問した。
「70年間続けた断食、この儀式を続けるべきでしょうか?」
神様は、「断食と悲しみはわたしのためか?」とすぐ聞かれた。
断食や悲しみは、神様が喜ぶ正しいことだった。
私達も同じように聞くべき。
祝福を求めているか? それとも、祝福を与えてくださる神様を求めているか?
贈り物を求めているか?それとも、贈り物をくださる神様をもっと知りたいのか?
礼拝や聖餐式も儀式になり得る。
それ自体は、悪いことではない。良いこと。
日光でもお寺や神社で、手を洗って浄めている儀式をしている人をみた。
批判するつもりはない。ただ、習慣に従ってやっている感じがした。
数年前、ある学生がクリスチャンになった。
両親はクリスチャンではなかった。
わたし達と一緒に中南米に旅行にも行って、その弟子は自分の両親を素晴らしい両親だと言っていた。
でも実は、彼の両親は去年離婚。
父親は「25年の結婚はただの習慣だった。」と言った。
チャールストンの教会に25年前に行った時、素晴らしい兄弟姉妹がいたが、彼らは落ち込んでいた。
一生懸命やっているが、神様の働きは感じなかった。
何度も、神様に立ち返る話をした。
実は、教会に来ない弟子がいても誰も気にかけていなかった。
そういう無関心の罪が全体にあった。
ある土曜日の一日、川の近くで罪の告白をしあった。
オープンマイクにして、「教会としての罪を祈りたい人は祈ってください。」と。
多くの人が、他の弟子達が教会に来なくても関心がなく、関わりたくない想いを告白した。
涙がたくさんあった。
成長したいのがゴールでなく、祝福でなく、「神様がともにいてください」という祈りだった。
その前のディボーショナルで教会としての罪を皆に書いてもらった。
罪のリストを土曜日に祈って一枚ずつ燃やした。
「告白した罪は過去のものです。忘れましょう。」
それが2011年11月のこと。
次の日の礼拝は全然違うものだった。
その時から、教会の雰囲気が変わった。
1)「儀式ですか?関係ですか?」
ゼカリヤ7:9-10
多くの人は、習慣的なことはするけど、心がだんだん硬くなる。
貧しい人に与えることをやめてしまう。
2)「わたし達は反抗するのでなく、神様に従うことが大切」
ゼカリヤ7:13-14
何世代にもわたって、神様は捕囚になる前に人々にずっと言ってきた。「わたしを求めなさい。」
でも彼らは聞かなかった。石のように心を固くしていった。
心を固くする段階には、4段階あった。
1)神様の話を聞かない、軽々しく聴いた。
2)神様に反抗した。くびきに従わず拒否していた。教会に来ているけど、自分のやりたいことだけやる。
3)神様の言葉を、耳を塞いで聞かない。
4)石の心。神様の言葉に心を動かされなくなった。これはすごく怖いこと。なぜから、自分もなりやすいから。
今年、長男にすごく怒ってしまった。怒り狂った。
その後、息子に謝った。罪悪感がものすごかった。
罪悪感がずっと心に残ってしまって、それが心を固くした。
神様の言葉が全然入って来ない。
親友の長老に電話した。
真実ではないことをベラベラ喋る。人に吐き出す。
自分の感情や言っていることは自分にも分からなかったけど、ただ自分の心が硬いことだけがわかった。
今日皆様の心はどうですか?
神様の言葉に頑なになっていませんか?
くびきを拒否していませんか?
神様の言葉にやわらかく反応しましょう。
ゼカリヤ8:1-8
わたしのお気に入りの聖句。
再建。神様が自分の民を蘇らせる。
小さい者、残り物の人を取り戻し、復興させると言われた。
彼らは想像すら出来なかった。
かつての栄光は遠くに見えた。
でも、神様ご自身がシオンに来て真ん中に住むと言われた。
過去の人や栄光はいらない、わたしがいるから。
神様はこの教会に宿りたい。
ものすごいビジョンのイメージを与えた。
エルサレムはこの時廃墟の山。
バビロニア人は神殿や家を壊した。
井戸も乾ききり、死体で埋められた。畑は石だらけ。
何十年後にネヘミヤが戻ったときでさえ、エルサレムはぼろぼろだった。
神様は、ここに老人老女が杖を持って集う、若者も集うと言われた。
彼らは悪いものしか見えず、ビジョンを失っていた。
いつか美しい広場に皆集う、将来の教会、今の東京の教会のビジョンをも話されている。
世界中で、日本の教会の奇跡の話をたくさん聞いた。
でも、同時に大変な時も経験したと聞いた。
神様は「過去を忘れてしまえ。」と言われる。
神様が宿ること、ただ神様がともにいてくださることを願いましょう
教会が変わって、10年間離れていた弟子が戻ってきた。
奥さんの方は離婚届を持っていた。
でも、教会へ戻って、夫婦で再献身した。息子も弟子になった。
別の夫婦も、弟子にばったり会って、弟子に戻った。
その息子もバプテスマを受けた。彼らの友達も弟子になった。
他にもこういう話がいっぱいある。
両親が神様から離れたけど、娘たちが大学で親元を離れ、兄弟姉妹に伝道され、クリスチャンになった。
娘達は、教会の愛を覚えていた。
神様は復興の神様。
神様は私たちの信仰を復活させたい。
神様は、残りものの小さな人々が必要。
神様を信じている信仰のある人、ビジョンのある人を求めている。
儀式ではなく関係。
神様は復興の神様です。
今日、儀式ではなく、共にいてくださる神様との関係を大切にしましょう。