『サマリア人のように』
飛行機で「お医者さんはいらっしゃいませんか?」と呼びかけると、日本人で反応する医師は半数以下。
なぜなら日本の法律では守られていないから。
助けたい気持ちがあっても、訴訟などを恐れて手を挙げられない場合がある。
アメリカではほとんどの州で、医師は法律で守られている。
アメリカ人医師は飛行機で呼びかけられるとほとんど反応するそう。
この法律の名前は「良きサマリア人の法律」(The Good Samaritan)
善意でやったことは訴えられない。
ルカ10:25-37
ある律法の専門家が「永遠の命を得るにはどうしたらいいか?」と尋ねた。
イエスは、逆に彼に質問された。
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
そこで話されたのが、聖書でも最も有名なたとえ。
当時のサマリア人は蔑まされ嫌われていた。
しかしそのサマリア人は、人として最も美しいことをした。時間、お金を費やした。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」
イエスが言われたように、わたし達は隣人を愛していますか?
隣人を愛すること、最も大切な掟の一つ。
1世紀のリーダーは実行していた。
最も大切で重要な掟。パウロ、ヤコブなども聖書に書いている。
パウロ-ガラテヤ5:14
ヤコブ- ヤコブ2:8
これを実行してきたクリスチャン達が歴史を作ってきた。
ポイント1:あなたはサマリア人です。
祭司やレビ人は正しい人だったのに、なぜ正しいことができなかったか?
なぜ、さげすまされたサマリア人が敵対しているユダヤ人を助けられたのか?
強盗がよく出る道。しかも、実は強盗していたのは多くはサマリア人だった。
わたしは最近よく考えさせられている。イエスと律法の専門家のやりとり。
「誰が隣人か?」
「この3人のうちで誰が襲われた人の隣人となりましたか?」
「その人を助けた人です。」
イエスはあなたの隣人はサマリア人と言われた。
襲われた人は選択肢には入っていない。
わたし達は、襲われた人を「隣人」の対象として見ている。
しかし、イエスが言われたのは、祭司かレビ人かサマリア人かの3択。
つまり、サマリア人にとって、襲われた人が隣人と言っているのでなく、襲われた人の隣人はサマリア人。
サマリア人を主体でフォーカスして、イエスは話された。
わたしは長い間この箇所をそのように読んでいなかった。
皆さんもおそらくそうかもしれない。
この聖句を理解するのには、旧約聖書のある一箇所を理解する必要がある。
これはわたしにとって新発見だった。
歴代誌下28:1-15
イエスラエル王国(サマリア人)とユダ王国(ユダヤ人)の国が二つに分裂→対立
イスラエル王国は神様を信じないで混血になった。酷いことをいっぱいしてきた。
歴代誌下で彼らは戦った。
イスラエル王国は圧勝。
預言者が、サマリア人にユダ王国の人々の捕虜や戦利品を返すようにと伝えた。
サマリア人は、それを聞き入れた。
歴代誌下28:15
ユダ王国に勝ったのに、憎しみ合っているのにあり得ない状況。ルカの聖句と類似。
イエスはたとえ話で場所を明確に言うことはない。
当時のユダヤ人は、この歴代誌の聖句のことを言っているとピンときたはず。
この聖句でイエスは何を伝えようとされたか?
1)サマリア人はやっぱりひどい。神様から離れてユダの民を叩き潰した。
2)でも、そのような中で美しい愛を示した
実はサマリア人はあなたの隣人です。
なぜイエスはこのように言われたか?
「隣人を自分のように愛する」=隣人を自分に似たような者であると認めること
あなたはサマリア人。あなたとサマリア人は何も変わらない。同じ兄弟。
わたし達は受け止めないといけない。
わたし達もサマリア人のように弱さ、罪、蔑まれもあるということ。
わたし達が隣人を愛するようにするとき、憐れみが必要。
憐れみは、その人と同じような心になること。
わたし達の多くは、憐れまれて助けられた経験がある。
わたし達の問題は、自分たちに問題がないと振舞ってしまうこと。
人の問題はよく見えて、ただこうだと通り過ぎているかもしれない。
人の心には入るのに、自分の心を見られていないかもしれない。
わたしは自分の心を見たり、表現したりするのは苦手。
二十代の頃、よく姉妹たちに「雄大くんの説教は素晴らしいけど、もっと弱さや失敗談を出してほしい。でないと、完璧に出来ているように見えちゃうよ。」と言われていた。
無意識のうちに、問題なく振舞って弱さを出さなかったと思う。
だんだんと成長して、今年も皆の前で自分の弱さや失敗を話した。
でも、まだまだ成長が必要。
数ヶ月前にある若い兄弟がお金の問題があった。
細かくアドバイスした。
でも正直、ちゃんとやれよと思う気持ちがあった。
別の兄弟にも助けてもらうことにした。
彼はめちゃくちゃ優しい。憐れみに溢れていた。
「自分も昔は駄目だった。変われた。だから君も出来るよ。」
わたしは、彼の優しさと憐れみ深さに驚いた。
自分の弱さ、葛藤によって、誰かを憐れみ、助けることが出来る。
わたしの、あなたの隣人は誰ですか?
問題や罪や弱さがあるサマリア人です。
そこから助けてもらって憐れみを受けた者。
わたし達もそのような者だからこそ、
嫌いだったり、得意でない人の隣人になれる。
ポイント2:あなたはサマリア人です。
言葉では同じだが、違うポイント。
あなたはあり得ない憐れみを示すことが出来る。
問題や弱さや罪がある。
でも同時に神様の限りない愛を示せる存在でもある。
問題は、わたし達が弱さ、問題、罪が大きすぎて、忙しすぎて、隣人を愛せないかもしれない。
サマリア人はユダヤ人を愛するのが最も難しい人たちだった。最も可能性はなかった。
歴代誌のように残虐な歴史があった。でも彼らは行って愛した。
わたし達の世の中にも、このような憐れみや愛が必要。
自己啓発本やメディアはいっぱい溢れている。
自分を高めることに熱心だが、皮肉なことに自己中心な社会、かつてないほど自信がない世代や社会を生み出している。
孤独はこの日本、東京で深刻。
このサマリア人の施しが必要。
自分にするように愛してケアした。
憎しみを乗り越えて隣人になった。
わたし達の教会もそのように出来る。
今日わたし達は、この聖句に対してどのように反応しますか?
2週間前、夜10:00過ぎにある姉妹から電話があった。
ある韓国人姉妹のお父さんが危篤で、夜2:00のフライトに乗らないといけないので車を貸してくださいとのことだった。
深夜に姉妹が運転してほしくなかったので、教会のすぐ近くにいた秋山大地くんにお願いした。
最期の16時間、その姉妹はお父さんと時間を過ごすことができた。
実は、お父さんはサマリア人のような存在だった。
家での暴言、暴力。。。数年前に、お父さんに自分が傷ついたことを正直に伝えた。
病床でお父さんは反応できなかったが、おそらく聴覚が残っていた。
ずっとお父さんに感謝を伝え続けた。
同時に、もしお父さんが神様の前で謝るべきことがあれば、悔い改めて謝ってほしいとも伝えた。
それこそ、サマリア人になる、行って隣人になることだとわたしは思った。
わたし達はサマリア人です。弱く罪深い。
自分が問題ないと思わないように、ただ避けないように、イエスが「行って同じようにしなさい。」と言われたように、わたし達もサマリア人のように行って憐れんで愛しましょう。