イザヤ53:5
昨年、ワイドナー夫妻が来日し、Grace Callsという本から学んだ。
シャイニングミニストリーでは、水曜ディボで学んだことを深めた。
この本の中に『傷ついた癒し人』という表現が出てくる。
わたしはこれにピンとこなかった。
イエスが傷ついて十字架についてくれて、私たちが救われたことはわかる。
自分の罪がイエスを十字架につけたこと、それにより罪を悔い改めて、赦される感謝は、わかる。
でも癒されるという部分がわからなかった。
兄弟姉妹が涙を流す一方、焦る気持ちがあった。
竹本牧師にそのことを話したら、「自分の中にないものはピンとこない。だからこそ知る必要がある」と言われた。
その後、ヘンリー・ナウエン著の「傷ついた癒し人」という本や、聖書から、そして様々な出来事を通してこのことを深めていった。
ポイント1:イエスによって癒される
ヨハネ20:19-21
弟子たちは、自分も処刑することを恐れて、鍵をかけ閉じこもっていた。
そこにイエスが現れた。手や脇腹を見せた。十字架の釘の跡。
弟子たちはイエスに会って喜んだ。
聖書にはさらっとしか書いていないが、十字架にかかって復活しているイエスに驚きと困惑があると思う。
なぜイエスは釘や槍で刺した跡を見せたのか?
イエスが神の子で復活したなら、傷跡をなくすこともできたはず。
でもイエスは、あえて傷跡を見せた。「平和があるように。」
傷と平和にどのような関係があったのか?
わたしは自分の中に、傷が癒される感覚が無い。
わたしはある一人の兄弟に、水曜ディボの交わりの中でそれを話した。
彼は次の聖句をシェアしてくれた。
ヘブライ5:2
「イエスご自身も弱さを持っていたから、思いやりを持てる。」
わたしにとってのイエスの傷は、そのようになるべき代償。
自分に罪があると、「ごめんなさい、ありがとう。」と思うけど、イエスの方が辛かった。
自分はそこまで傷ついていない、悲しんじゃいけないと思っている部分があった。
聖書的ではない理解をしていた。
イエスの傷は、弱さを示すもの
わたしと同じ弱さを持った方だった。
わたしのことを思いやれる印だった。
これだけやってあげたのだからあなたもというのでなく、癒してくれた思いやりだった。
孤独じゃないのだと癒されるようにだんだんなって来た。
神様が、イエスご自身、弱さがあったから思いやってくださったこと。
わたし自身の傷が癒されるように毎朝この聖句を読んでいる。
「わかるよ。それはわたしも知っているよ。」
イエスは隣でそのように思いやってくださる方。
弟子たちは、裏切って逃げ出してしまった。
思ってもみなかった臆病さが出て来て挫折していた。
その時にイエスは、傷を持って現れてくださった。
イエスの傷を見る時、あなたのことをわかるために受けた傷でもある。
もし苦しければ、イエスの傷を見ましょう。
そして、癒されましょう。
ポイント2:癒されたら傷を癒そう
ヨハネ20:20
イエスは弟子たちを派遣する。
「今度はあなたの番だよ。」そう言って。
時々、近い兄弟姉妹にこう言われる。
「真くんに、気持ちをわかってもらえていない気がする。」
わたしなりに挫折や悲しさを通って来た。
でも、人の気持ちをわかるのが得意ではない。
比べるものではないが、多くの兄弟姉妹が通って来た試練を聞くと自分の試練はそこまでではないと感じる。
人生の辛い試練があったにもかかわらず、イエスの弟子として喜んでいる彼ら。
同時にとても優しく、罪にも厳しい。わたしは彼らをとても尊敬している。
弟子の人生は楽しいか?
教会は喜び溢れている。
でも、イエスの弟子は、イエスに付いていくもの。
苦しみ、悲しみがある。
では何が平和なのでしょうか?
2コリント1:4
2009年に神様と出会い、2010年に弟子になって8年。
嬉しいこともたくさん。同時に苦しみもたくさんあった。
苦しみはあってよかったと今では思う。
同じようなことにあった人の気持ちがわかるようになったから。
イエスの傷によって癒された傷は、次に誰かの傷を癒すことになる。
苦しみを癒すプロセスは、イエスのくれた平和。
最近教会の中に、自己憐憫の罪があるように思う。
苦しみ、悲しみを理解されたいというニーズが強い。
でも、最終的に人は人を理解出来ない。親でさえも。
イエスだけが出来る。
スキーマやGEPは素晴らしい。
でも同時に人に理解されたい、わかってほしいと自己憐憫になるのは、罪。
「自分しかわからない。孤独だ。でも頑張ろう。」そのようになって欲しい。
私には、人を助けてあげているというプライドがあった。
相手が周りの兄弟姉妹に助けを求めていないのに、勝手に推測した。
その結果、近い兄弟姉妹を傷つけた。
シャイニングの兄弟姉妹も傷つけた。
すみませんでした。
イエスご自身が自ら傷ついてくれた。私たちを癒すために。
今日罪を捨てて、180度悔い改めていきましょう。
イエスに癒された傷があり、今度はわたしたちが誰かを癒すことが出来る。
それこそイエスの弟子としてやりたいことではないでしょうか?
バプテスマを受けて、私たちこそ、職場で、家族で、友達で、イエスを伝えたいから弟子になったはず。
わたしは8月に、スタッフとしての任期が終わる。
でも弟子の任期には終わりはない。
苦難はある。でも、その時にみなさんと一緒にイエスに傷を癒して頂きたいです。