『新しい神様を見る』
スライドはこちらから→20200510 使徒シリーズ4 新しい神様を見る
使徒15章からお話したい。
使徒15:1-11
使徒13章と14章では、パウロとバルナバの宣教旅行が描かれている。
アンティオキアからキプロス島、ガラテヤへ。そしてアンティオキアへ戻った。
彼らの宣教旅行により、異邦人にイエスが伝わった。
パウロとバルナバが他の弟子たちにそれを喜んで報告した。
でも議論が勃発した。
異邦人に割礼をさせるかどうか、つまり律法を守らせるかどうか。
ポイント:神様を見るために謙虚になる
ユダヤ人にとって割礼は大切。
アブラハムが神様に命じられた大切な儀式。
割礼は神様の民である証。大切なアイデンティティー。
ユダヤ人にとってとても難しい問題。使徒ペテロにとっても。
これまで大切にしてきた神様との関係の築き方を変えるのか、多くの議論が重ねられた。
律法を熱心に守ってきたファリサイ派の弟子たち、これからも割礼を大切にしたかった。
一方、信仰によって私たちも救われているという意見もある。
どちらの意見も間違っていない。
古くから大切にしてきたものか?新しいものか?
私は空手の練習の問題を思い出した。
千本組手のように数を求めるか、質を求めるか。
昔からある量を大切にする文化と、今はそれは必要ないとスポーツ科学で証明されている、という意見もある。
量、質どちらが大事でしょうか?
わからないと思う。
正解がないものはたくさんある。
過去のやり方に捉われると、新しいものが見えなくなってしまう。
律法によってなのか、信仰によってなのかが大事。
私たちは異邦人にも信仰を伝えるために選ばれた。
私たちは主の恵みによって救われている。
ペテロは、それが間違っているかどうかを言ったわけではない。
使徒15:7−8
このような状況では、新しい神様を見る必要がある。
イエスの恵みによって救われるという、新しい神様を見ていく必要がある。
新しい福音を見る。
だからペテロは他の人々を見ることができていなかった、新しい神様の計画を見ることができた。
私たちにも同じことが起きているかもしれない。
これまでの正しさ、働きに捉われ、固執すると新しい神様が見えなくなってしまう。
上手く行っていたものが上手く行かなくなる。
私たちは神様を理解している、わかっていると思ってしまうかもしれない。
でもペテロは今までの常識に固執せず、正しく神様を見ることができた。
私たちはどのようにしたら新しい神様を見ることができますか?
エルサレムの使徒会議の10年前、ペテロにある奇跡が起きた。
使徒10:11−15
ペテロは10年前、異邦人の救いを経験している。
ペテロは12時ごろに祈っていたらお腹が空いてきた。
何か食べようとしたら食べ物が降ってきた。
あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥。
律法では食べてはならないものが入っていた。
ペテロはそれらを食べなさい、という神様の命令を受け入れられなかった。
新しく神様が示されたこと、神様が行いたかった奇跡を受け取ることが難しかった。
1世紀の教会のリーダー、ペテロでも新しい神様を受け入れることを拒んだ。
誰でも難しいかもしれない。
今日、神様は新しい神様を知って貰いたい、見てもらいたいと考えている。
私たちはどうしたら新しい神様を受け入れられるでしょうか?
どのようにしてペテロは新しい神様を受け入れられたでしょうか?
使徒11:17
前の10章で、異邦人にバプテスマを授けた。それをエルサレムの弟子たちに報告する場面。
ここに新しい神様を見ていくために必要なものがある。
異邦人に救いを与える中で、ペテロは確信した。
神様はユダヤ人に与えてくださった賜物を異邦人にも与えている。
それを私は止めることができないと。
わたしはペテロのこの言葉に謙虚さを感じる。
彼は始めは迷って、戸惑っていた。でも新しい神様を受け入れた。
そのために自分が変わっていく謙虚さがあった。
神様を決めつける事はしなかった。
自分のようなものは神様のほんの一部分。
そのような態度がペテロにはあった。
新しい神様を受け入れる謙虚さこそ、私たちに必要な態度。
私たちは新しい神様を見ることができていますか?
そのためには新しい神様を受け入れる必要がある。
自分が変わる中で、新しい神様を受け入れていく。
今日神様は、私たちに新しい神様を見てほしいと期待してくださっている。
新しい神様を見た時、神様が教会を動かしてくださる。
今日、ぺテロたちが新しい神様を受け入れていなければ、ユダヤ人ではない私たちは救われていなかったかもしれない。
割礼がマストで、異邦人の救いが遠のいたかもしれない。
ペテロたちが変わったことでキリストの愛が広がっていくことになる。
ペテロが大胆な態度で、福音を広めていった。
神様がそこに働いてくださった。
わたしは毎日のように新しい神様が示されることにエキサイトしている。
今までの弟子生活の中で、幾つもの失敗をしている。
わかっていることが2つある。
私には出来ないことが多いこと。
私には見えていない神様の側面があること。
聖書を友達に伝えようとしたとき、新しい神様が示されることを感じる。
新しい友達と聖書を読んでいる。
勉強に入っているメンバーで話し合っている。
もっと大胆に、ストレートに伝えた方が良いのでは?という意見があり、確信を持ってベストを尽くすも、上手く伝わらない。
でも、それを受け入れる必要があるかもしれない。
神様が私たちをどれほど受け入れてくださっているか、感じないといけない。
先週からオンライン聖書勉強を始めた別の友達がいる。
コロナの前から友達関係を築いてきた。
先日、「一緒に聖書を読んでみませんか?」と聞いたら「前から読みたかった」とすぐ返ってきた。
毎週一緒に読んでいくことになっていた。
古い自分の価値観では、コロナの状況では新しい聖書勉強は始まらないと思っていた。
しかし、この出来事によって新しい神様が示された。
やり方は重要ではない。どのような方法でも福音は伝わる。
この出来事を通して、新しい神様の側面を知ってエキサイトしている。
同時にこの友達、本来は就活の時期でこれから忙しくなるはずだった。
コロナによって、就活が活発に出来なくなり、時間が出来た。
神様は新しい状況、難しい、不安定、だからこそ私たちに神様を示してくださる。
使徒会議もそうだった。
教会になかった正解のない議論から神様を知れた。
私たちにとってコロナウィルスの状況は、先の見えない不安定な状況。
不安に感じたら、新しい神様を見る必要がある。
新しい神様を受け入れるために、自分の過去の経験や価値観、傾向を深く見ていきましょう。
心を開いていきましょう。
私たちは変えられていく必要がある。
今日の説教、「新しい神様を見る」というタイトルで、ポイントは「神様を見るために謙虚になる」でした。