『神様と一緒にお祝いしましょう』
2018年、わたし達の教会はネヘミヤ記から学んでいます。
城壁の再建は、国を建てること、再建。
今日は国について考えていきたいと思います。
シーランド公国という世界で一番小さい国がある。
国として条件を満たしていないので、他の国と国連には認められていない。
世界には様々な国がある。
イエス・キリストは、天の国についてよく話された。
マタイ22:1-14
天の国のたとえ。
王様が王子の結婚式の準備をして、人々を招いた。
呼んでいた人々が来ない。
家来に頼んで再度行ったのに来ない。
家来を殺す人までいた。
王様は怒ってその街を滅ぼした。
そこでどんな人も改めて招いた。
1人、婚礼に相応しくない服装の人がいて、外に出されてしまった。
わたしは、この聖句を読んで後味が悪い。
祝宴のはずなのに、焼き滅ぼす、服装のことで追い出される…。
この箇所は、終わりの時の裁きについて書かれている。
ただ優しいのでなく、厳しい。
王様は神様。人々と婚礼パーティーで分かち合いたい。
神様は、その特別なベストモーメントを一緒にわたし達と味わいたい方。
この話は後味が悪い話では無くて、お祝いの話。
ポイント1:神様の婚宴に行きましょう。
天国のたとえ。
世界を見ると多くの国が王国。
いい王様が納めればいい国になる。
「天の国は、この王様のようです。」
元々の聖句の意味、この王様は、強引で残酷な王様?
皆とお祝いしたい、分かち合いたいという優しい王様。
王様に招かれる結婚式は、特権。
普通の庶民でも、1週間はお祝いした。
王様の婚宴はもっと長い。
普通は参加できるはず。
畑や商売に行くのは愚か。
この王様は書いてあるだけで、3回も誘った。
家来を遣わせて招いた。別の家来も遣わした。「食事も出来たから。」
残虐というより、泥臭い。「来てくださいよ!」
当時のユダヤ人が牛を屠るのはとても特別な機会のみ。
ゲストへの限りない尊重のあらわれ。英語だと「わたしの牛(my ox)」。王様の牛。
最終的に誰でも招いた。
なぜこの人たちは婚宴に行かなかったのか?
ある人は家来を殺した。なぜ?
ここに、わたし達と神様との関係における鍵があるかもしれない。
自分の畑=心、 商売=賜物、自分の感情などが分かって来たかもしれない。
自分の傾向を分かって来ているが、神様との関係やふれあいがうまく出来ていないのかもしれない。
この婚宴に行けなかったのは、わたし達かもしれない。
彼らは自分フォーカスだった。そして自分フォーカスから見方を変えようとしなかった。
マタイによる福音書は、ユダヤ人向けに書かれた。
最初に招かれた人々はユダヤ人のこと。
旧約聖書から、神様は招いているが、背き続けた。
自分達をフォーカスして、神様が見えなくなった。
自分を見るのは大事。
でも、自分を見ることが神様を見えていることにはならない。
今日、わたし達が自分を見て自己中心だったら、神様の元に行かなかったら、王様の婚宴に行けない。
「すっかり用意が出来ました。さあお越しください。」
あなたはいろいろな思いがあるかもしれない。
それは神様には関係ない。
信頼して、招待を受けることが大事。
今の社会、ますますセルフフォーカスになっている。
価値観の多様化。
これで自分はいい、なんでもいい、というのは実は良くない面もあるように思う。
自己中心になる。自分だけの世界。
自分では準備出来ないご馳走、どれだけ満たされるでしょうか?
2016年、カンボジア国王が、わたし達の教会も支援しているシアヌーク病院に来てくださった。
王子だった時にも病院へ来た。
当時政情によりパリでダンスの先生をしていて、王位には就きたくなかったのだそう。
お見舞いに来てもらった子供は神様を見るかのようだったという。
王様、神様が招いてくださるのが、どれほど特権か。
わたし達は分かっているでしょうか?
神様の婚宴に行きましょう。
ポイント2:礼服に着替えましょう。
この例え話の後半には、さらに婚宴に水を刺すような出来事。
礼服を着ていない人が追い出される。
これは、イエスが十字架にかかる同じ週に話されたたとえ。
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
裁きについて、わたし達は軽んじてはならない。
でも、読んだ時に、わたし達はこう思うのでは?
道端で声掛けられたので服持ってなかったかもしれない。
礼服を用意出来る余裕がなかったのかも。
なんせ、急に声を掛けられたのだから。
「友よ。」優しい問いかけ。
彼は黙っていた。その人の中にやましさがあったのではないか。
ある学者が言うには、礼服すら王様が準備していたのではないかということ。
神様は無条件でパーティーを開き呼んでくださる。
つまり、彼は自分の選択で、礼服を来なかった。
王子様はイエス・キリスト。
キリストに相応しい格好が必要だった。
何を着るべきかも与えられている、教えられているが、わたし達が何を着るかはわたし達次第。
神様は、ロボットでなく、反応する心を期待させる。
わたし達は自分から神様の招きに反応して、礼服を着る必要がある。
あなたがクリスチャンなら、すでにキリストを着ている。
神様に感謝すること。いつも礼服に着替えているか、確認する必要がある。
英語で着替えるのはチェンジ。心を変え続ける必要がある。
ジェームズボンド、スパイなのにいつも服装を気にしている。カッコイイ。
わたし達は自分がいつも何を着ているか気にかける必要がある。
人と接する時、新しい人に出会う時、職場の人に接する時…。
イエスを着ているか?吟味する必要がある。
イエスを着て行動している弟子が大勢いることで、最近神様の御業を見ている。
キャンパスで勇気を持って声掛けた人が2週連続礼拝に来てくれている。
職場でイエスを纏って、職場の人と聖書を読むことになった兄弟が2人いる。
今日皆さんにお願いがあります。
キリストを着続けてください。
キリストのように振舞ってください。
来てくださったお友達、聖書を読むことで、キリストを着ることが学べます。
神様のパーティーに是非来てください。
今日、マタイの会というクリスチャンではない方向けの会があります。
エリックさんとパティーさんがどれほど彼らの人生で神様の婚宴の招きに応じて人生が変えられたかをシェアしてくださいます。
キリストを着続ける人生には祝福がある。
今日神様のパーティーに行きましょう。
自分の思いでなく、礼服を着続けましょう。
神様の教会になって行くことを期待しています。