再建に向けて信仰を学びましょう。
神様が持ってほしい信仰について。
ヘブライ12:1-2
『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。12:2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』(新改訳)
新改訳では、英語の聖書と同じ、「喜びゆえに」とある。
ヘブライ書11章、12章は信仰について書かれている。
信仰のヒーローが出てくる。
自分の罪、思いと戦って神様の示された道を走り抜いた。
アブラハム、行き先も知らずに神様を信じて旅立った。
モーセ、 イスラエルの民をエジプトから導き出すために、ファラオの元に導き出された。
ダビデ王、自分の罪と向き合ってイスラエルの王国を治めた。
神様の預言通り、子孫としてイエスが誕生。
彼らはまさに、自分たちの前に置かれたレースを走り通した。
罪や重荷を捨てて歩むように、ヘブライ書では励ましている。
わたし達にも同じ期待がある。
今日の説教タイトルとポイント:
『信じてくれているから信じる。』
イエスキリストは、12:2にあるように喜びゆえに恥ずかしさをものともせずに、十字架にかかってくださった。
必死で苦しくて痛みがあったけれど、イエスにとっては喜びだった。
どうすれば十字架が喜びに変わるのでしょうか?
なぜ彼は喜びとすることができたか。
わたし達には考えが及ばない次元のように感じる。
ルカ7:19
ヘブライ書と同じ喜びという単語が使われている。
悔い改める人について神様は喜びと言われている。
「わたし罪人を救うために来た。」
イエスは明確に言っておられる。
イエスにとって、ご自分の前に置かれた喜びとは?
十字架のレースの前に置かれた救いという実りだった。
イエスにとっての十字架は、心を無にしてやる義務ではなかった。
むしろ、神様から信じて任せられたものだった。
救いの実がゴールに備えられている最高のゴール。
だから最後まで苦しみに耐えられた。
頑張るという人間的なものとかけ離れたレースを走り抜いた。
イエスの十字架には、神様への信仰が必要だった。
死と罪に打ち勝ち3日目に復活された。
イエスキリストは、信仰の創始者であり、完成者。
今日イエスからどれほどの信仰を見いだすでしょうか。
どれくらい信じているか?
どれくらい神様に信じてもらっているかというのが本当の信仰。
神様が、わたし達をそこまで信じてくださっていることを、信じていますか。
自分の前に置かれた信仰のレースを走っていますか?先にある栄光を信じているから走りぬける。
神様でなく、自分フォーカスになると、すぐに罪に持っていかれてしまう。
重荷になり走れなくなる。
これはわたしへのメッセージ、聖句。
問題フォーカスになり、不信仰になる。
自分がうまくいかないとき、罪が見せられたとき、自分の思いに支配される。
人間的な頑張りでなんとかしようとする。
神様が自分を信じてくださっていると忘れて、なんとか信じよう!と自分に頼る。
結果、ただの苦しみ、重荷、負担になってしまう。
しかし今日、イエスは変わらない方。
どのような状況でも、信じてくださっている。
だから神様に立ち帰ることが出来る。
人は一切関係ない。
今日そのことに心から励まされる。
わたし達は信じていますか?神様が、教会を祝福してくださること。
神様が、もっと多くの人が人生を変えることができる、神様を求めて救われると信じている。
けれども、神様がレースを備えてくださっているのに、そのレースを走っていない人がいることを感じる。
自己中心、身勝手な罪。
神様は、わたし達が出来るからそのレースを備えてくださった。
日本の教会の再建を望んでおられる。祝福したい。エキサイトしている。
それにどのように個人的に反応したいですか?
先日、全ての重荷をかなぐり捨てる時間があった。
あるコーヒーショップ、救われる前に奇跡的に心が変えられた場所。
同じ場所で、同じ席に座り、同じ聖句を読んで祈った。十字架の前で正直に。
「神様、わたしには出来ないことがたくさんあります。わたしには取り去られない罪があります。
絡みつく罪があります。もっと、わたしより適任の人がいるんじゃないですか。」
イエスはわたしの顔を掴んで言われた。
「あなたはできる。あなたを信じている。わたしがあなたを選んだのだから。」
涙が出てきた。祈りの中で信じる決心をした。
ただ信じるのではなく、信じてもらっているから信じようと。
わたしの原点。 がっかりしてしまうとき、わたしはその原点に戻る。
自分が何者でどこから来たか。
そんなわたしをも、変わらず信じてくれるイエスを覚える。
神様の定めてくださったレースは人間的な次元が違う。
その先には喜びが待っている。特別でエキサイティング。だからわたしは諦めたくない。
もっとも親しい兄弟も一人がアメリカへ行った。
お互いさみしいからか(笑)よく連絡をしている。
その聖句は、彼からもらった。心から尊敬する人。
よく彼は、バプテスマを受けた後こう言った。
「航が知っている自分は、航が救われる前の自分と別人だよ。」 と彼は言った。
彼は、何年も霊的にボロボロで戦っていた。
苦々しい思いがあった。
わたしが彼と出会った年、ジュビリーに罪を悔い改めると決心した。
もう罪に囚われたくない。
人間的な思いを一切捨て、神様が備えてくださったレースに出ることにした。
その数ヶ月、そのメタノイアの先に、たくさんの喜びがあった。
ティーンの救いに関わった。そして、わたしの聖書勉強に入って助けてくれた。
わたしは聖書を読んでも心でよくわからなかった。諦める誘惑があった。
最も難しい時に隣にいてくれた。
クリスマスの時に夜遅い時間にわたしのバイト先に来てくれた。
平日に有休も取って会いにきてくれた。
たかが学生一人のためにここまでしてくれると衝撃を受けた。
会うたびにもらう手紙に何回会って何をしたかが書いてあった。
「この人は自分のためなら命を捨ててくれる。」と思った。
ずっと信じてくれた。愛し抜いてくれた。バプテスマまで導いてくれた。
その後、一緒にティーン、キャンパス、シングルの救いに関わった。
昨年彼の子供がバプテスマを受けた。学び会をリードした。
会社の人も導き続けている。アメリカに行っても、会社の後輩に同日付でプレゼントを送った。
彼は兄弟達にも、リマインドをしていた。その人は、感動していた。
「教会の人からこんなにお祝いしてもらって嬉しい。郵送でのプレゼントは反則だ。本人には直接言えないけど、感動した。」
わたしはいつか彼が救いに導かれると信じている。なぜならその兄弟が彼を信じて愛しているから。
神様のレースに戻ったとき、喜びがあった。彼にそのことを教えてもらった。
わたしはそれを目撃した。
自分の状況に関係なく、今日わたし達全員はそのレースに戻れる。
日本中をみて同じ心でいる人を神様が探しておられる。人間的なものからかけ離れたレース。
教会が再建されるには、備えられたレースを走る人が必要。
喜びゆえにレースを走りきったイエスを今日覚えましょう。
神様が信じてくださっている
わたし達がレースを走った時、神様が偉大な奇跡を行なってくださる。