今日はキーワードが一つあります。この言葉を深めていきたいと思います。
『契約 covenant』
契約と聞いてどう思いますか?
守らないといけないもの?縛られるもの?
聖書は、契約の書です。
ポイント1:神様の契約
古い契約 =旧約聖書(Old Testament)と 新しい契約= 新約聖書(New Testament)
契約とは双方の約束、つまり相手が要ること。
結婚も契約。
申命記(Deuteronomy)・・・日本語は「繰り返し教える」という意味。英語は「二つ目の約束」の意味。
当時の契約書はこのような形を取っていた。
序文、歴史的背景、一般的条項、具体的条項。
申命記は同じ形式で書かれている。
申命記はモーセの福音書とも呼ばれる。
申命記6:16-25
わたしはこの1、2ヶ月間この聖句を心に留めています。
ゴールデンウィークに子供達と関わることが多い中、特に「子供たちに聞かれたらどう答えるか?」考えている。
戒めと掟と定めはまさに契約。
あなたに命じられたらどう答えますか?
あなたが大事にしている神様の計画は何のためですか?
あなたが10代のクリスチャンであっても、80代、90代のクリスチャンであっても神様の契約は変わらない。
神様は「与えたい!」方。
神様の契約は?重荷?
モーセは、神様の計画はどのように自分たちを助けて救ってくれたかの祝福について話している。
わたし達は守るものは、命令、掟、定め。
これらを守らないと罰せられるものとして捉えてしまう。
神様はどん底にいる人たちに「幸せに生きるようにした」と書いてある。
それが一番の神様の願い。
Aliveは生きると同時に生き生きすること。
頭では、神様が幸せを与えてくださるけれども、契約は守らないといけないものと捉えてしまう。
これは御利益主義ではない。
神様の想いを知ること。
6:25に「我々は報いを受ける」と日本語ではあるが、英語では「That will be our righteousness」と書かれている。
「それを守ればあなたの義になる」という意味。
神様と同じ性質に預かって、同じようになるということ
神様の契約は、関係のこと。
神様の想いがある。
モーセの語っている相手は2世代目。
前の世代のほとんどが神様を裏切った。
普通は、相手が契約を破棄したらこちらも裏切っていい。
でも神様は、あなたたちが立ち返るなら生きると言われる。変わらない神様の契約。ずっと続く。
裏切ったとしても、有効期限がない。
どんなに掟を破ろうと無効にしない神様。
神様はまず与えたい方、わたしたちのベストを望んでいる。
わたしはこれに吹っ飛ばされる思いがする。
これは古い契約ではない。
わたしたちは契約としてここまで尽くしてくれる方はどれほどいるだろうと思う。
今日は母の日礼拝。
夫人の皆さんが話してくれた。
わたしも母のことを話したい。
高校生の時、大きなお弁当を3つ持っていった。
いつもおなかが空いていた。
パンだったり、おかずの量が少ない時には文句を言った。
それでも母はお弁当作りをやめなかった。
小学生の時に、人のものを盗んだことがあった。
嘘をついてバレた。
家に先生が来た。怖かった。
母は事情を知らなかったが、「何があったか知らないけど、わたしは雄大と一緒にいます。」と言ってくれた。
この人は何があっても一緒にいてくれる人だと思った。
もちろんそのあとひどく怒られたが、何があっても一緒にいてくれるというのが心に残った。
ダビデとヨナタンの間で結ばれた契約、もっとも美しい契約だと思う。
サムエル記を読んでみてください。
一番近い契約は結婚だと思う。
関係の契約。お互いに対しての約束。
死が二人を分かつまで。
世の中では、結婚の契約はただの紙切れで意味がないという。
愚かなことだと思う。
多くの人の前で誓ったはずのものを軽くみて、相手の裏切りがあれば自分もいいと契約を破棄する。
結婚関係が簡単と言っているわけではない。
が、本来は、契約とはそのようなものではない。神様の途切れることのない契約。
揺らがないものがない社会。
より多くの人が迷っている。
わたしたちの人生は、神様の義に生きられる。
ポイント2:わたしたちは神様を畏れる
契約とは相手が要ること。
申命記には神様の命令に従いなさいという時に、神様を畏れることがセットになっている。
畏れるとは?
畏れると恐れる、日本語では漢字が違う。もともと同じ言葉。
恐れるは恐怖を感じること。
畏れるは尊敬、畏敬の念を抱くこと。
わたしたちは神様を畏れていますか?
正しい心を持っているでしょうか?
恐れと畏れは似ている。
なにかの偉大なものに対して湧き上がる感情
今日わたしたちは健全な畏れを持っていますか?
今は価値観が多様な時代。
迷う人がたくさん出ている。
健全な畏れを持っている人は、明確な基準を持っている。
もしかしたらわたし達はそれを失っているかもしれない。
この畏れを正しく持つことは自分の責任を果たせることに繋がる。
箴言1:7
コヘレト12:13
わたしたちは不健全な恐れが多いのかもしれない。失敗、不十分、罰など。
もしくは基準が曖昧。
神様への健全な畏れを持つ近道はない。
ただ神様を見るしかない。
連休中、前半は5、6年生とキャンプだった。後半は大学生と。
19年前に本栖湖キャンプで心が変えられて、クリスチャンになれた。
本栖湖のキャンプ場に50年前の写真がある。
若かりし頃の井上さんの写真がある。
本栖湖と岩場は風景が変わっていない。
キャンプで小鴨さんがいてくださった。
自分の3年生と5年生の子供もいた。
50年、60年前から変わっていない場所、
同時に何人もの人の人生が変えられた場所。
自分の人生がそこで変えられたことを子供にも話した。
ある兄弟は、子供が既に弟子で成人している。
子供の聖書勉強についてアドバイスがほしかった。
でも、彼がまず子供に言っていたこととは「自分は、神様を信じられて本当に良かった。」ということだった。
彼は言っていた。「生きていればいるほど自分の行動ではどうしようもできないことがある。」
今週あるキャンパスで大学生と聖書を読んだ。
彼とはずっと関係を築いて来た。
「ずっと人目を気にして来た。でも聖書の生き方はそうではないと知った。皆がそのように生きていて、自分もそのようになりたい。」と彼が言ってくれた。
神様はわたしたちに出来ないことを成し遂げてくださる方。
今日、不健全な恐れでなく、健全な畏れを持ちましょう。
不健全な恐れは、ここまでやればいいというもの。
束縛、重荷、ルール、罰に繋がっていく。
健全な畏れは自由、喜び、神様の想いを理解しようすることに繋がる
一人一人が、健全な畏れを神様に持つ時、もっともっと神様の栄光を表せる教会になると信じています。