「ワーシップをして皆で歌おう」
ワーシップ、ワーシップソングとは何でしょう?
ワーシップするためのソングですね。
神様を賛美する曲は世界中にあります。
賛美歌、ゴスペル、ロック、ラップ、etc…。
静岡のある教会がワーシップソングを盛んにしている。
先日渋谷でコンサートがあったので行ってきて励まされ、学んだ。
教会と歌は切っても切り離せない。
どうして?聖書に書いてある。
詩編には何度も「主に向かって歌え。」とある。
詩編98:4-8
詩編自体が歌の詩。
モーセとアロン、ミリアムは奇跡の後に踊って歌った。
ダビデは自分をさらけ出して全身で歌い踊った。
皆さまの中にも歌を通して、神様の愛に触れたことがあるのではないでしょうか?
改めて、歌を通して神様を賛美して行きましょう。
同時に、わたし達はどのような心で神様を賛美、ワーシップしたらよいでしょう?
ローマの信徒への手紙12:1-2
歌うことが礼拝ではないし、礼拝に参加することが礼拝でもない。
聖なる生けるいけにえとして捧げることとある。
旧約聖書時代には、燃えつくす捧げものを全て燃え尽くしてなにも残らなかった。
この聖句、どう感じますか?
厳しい?自分が豚の丸焼きになった気分?
むしろ、聖句にあるように心を新たにして神様に変えていただくこと
神様の価値観で生きて行くこと。
今日、皆さんの前にイエスが現れたとします。
「今からわたしといっしょに来なさい。あなたにしてもらいたいことがある。」と言われたら、あなたはどのような反応をしますか?・明日も会社があるので、、、
・子供にごはんを食べさせてないので、、、
・明日大好きなアーティストのライブがあるので、、
僕なら、「まだ新婚なのであと1、2年は。。。」
価値観、それは人それぞれ違う。
ワーシップの語源は「価値あるものとみなす」という古い英語 worship…worth…
全てを捨てて、自分自身を捧げてもいいと思っているものが、あなたがワーシップしているものそのものです。
わたしは2011年にクリスチャンになりましたが、1年間はなにも役割につきませんでした。
当時DPだった兄弟の強い確信により、ただただ礼拝に集中できました。
そのあとワーシップチームに参加しました。
ですが、歌うことには実は傷がありました。
高校生の時にこの道で食べて行くと決めて大好きだった歌うこと。
でもミュージカルの中で、失敗し、傷が出来てしまった。
祥平さんが大阪から来て、一緒にハウスホールドを始めた。
そこで彼に「真、メインリードをやらへん?」と言われた。
正直、最初は乗り気ではなかった。
でも彼は自分とソングリードを練習してくれた。「評価ではなく、神様のためなんだよ。」と励まし、アドバイスをくれた。
2012年の秋、初めてソングリード。
緊張して間違えたかもしれないが、ただ喜びがあった。
もう評価されなくていい。羽が生えたような軽さだった。
クリスチャンになって、自由があった。
歌うことの傷は癒され、喜びに変わった。
神様に全てを捧げる行動基準に変えて、そのような奇跡があった。
時に厳しい道もある。
でも、自分の元のやり方には二度と戻りたくない。
ローマの信徒への手紙12:2
わたし達が聖なるいけにえとして捧げることができるのはどうしてでしょうか?
神様がまず、憐れんでくださったので、わたし達は捧げることが出来る。
それは義務ではない。
仕事や家族、地位やパートナー、子供は神様からのプレゼント。
プレゼントがそれを送ってくださった送り主よりも大事になっていないでしょうか?
クリスチャンとして長く仕えている方、恵みの分だけわたし達は捧げる模範になっているでしょうか?
それとも、恵みの分だけ、しがみついているんでしょうか?
もしクリスチャンになったばかりの時よりも今の方が捧げていないとしたら、カウントコストする必要があります。
神様に言われていると感じているメッセージ。
「あなたは自分の大切なものを、わたしが大切にしているものよりも大切にしているのか?」
わたしはありました。神様ごめんなさい。
もし仕えているシャイニングで傷つけていることがあったらごめんなさい。
あなたには、預けられないと不信になっている罪はないでしょうか?
もしあるとすれば、礼拝後すぐに信頼している兄弟姉妹に話して悔い改めましょう。
ワーシップしましょう。
偉大な神様を賛美し、共に仕えて行きましょう。