個人的なことですが、今月フルマラソンに参加予定です。
2013年猪苗代湖マラソンに参加しました。
当時小田拓哉くんは聖書勉強中でした。
二つの失敗をしました。
なんとかブレイクスルーが欲しいと思い、前日彼とオールでカラオケ。
28km地点で脚がつってしまいました。なんとか完走したものの、残り10数キロは歩いてしまいました。
今日は、失敗を通しても神様が働かれる話。それに通じるものがあると思う。
マラソンに行きでヒッチハイクした時、福島まで乗せてくれた男性と一緒に写真を撮った。
4年後、小田拓哉くんが転職した時に同期で入ってきた男性がなんと彼!
いま、小田くんや大阪の教会は彼に神様を伝えようとしています。お祈りください。
ペテロから学びましょう。
ペテロはどのような人物か:
- イエスの一番弟子
- 1世紀の教会のリーダー
- 失敗者
イエスの最初の奇跡も見ていた。
教会の岩、土台、ペテロの説教によって3000人がバプテスマを受けた。
晩年、教会は大迫害を受けた。それでも固く立っていた。
どの弟子よりもイエスに怒られた。湖の上で信仰がないと怒られた。「下がれサタン!」とまで言われた。
イエスを裏切った。カヤファの家の中庭で、「イエスを知らない。と言ってしまった。
イエスと目があった。
命を捨てても従うと言っていた人を裏切った。
一生、イエスのそのまなざしは忘れられなかったと思う。
イエスの一番弟子であることに傲慢になっていた。嘘をついた。
イエスキリストよりも、自分を取った。決意がなかった。
一生思い出したくないくらい、立ち直れないほどの失敗。
しかしその後、ペテロは復活したイエスと会話した。
ヨハネ21:15-19
ペテロにとって人生の転機となる瞬間になった。
でもこの会話は、ペテロにとって居心地の良いものではなかった。
イエスを知らないと言った瞬間、目があったイエスとの会話。
目をそらしたかったかもしれない。
ペテロは教会の夢を諦めて、漁師に戻ろうとしていた。
命を捨てると言ったのに裏切った。
こんな自分は適任者ではない、イエスに叱咤されるかも、こんな自分は駄目だ。
そんな思いだったかもしれない。
わたしはこの2ヶ月もがいている。悔い改められずに苦しんでいる。
弟子に真理を伝えられなかった。
友人のために励ましのカードを書くことすら躊躇していた。
竹本夫妻に依存してキャンパスの責任を取っていない。
本当のわたしは、イエスのためになんでもするといいながら、イエスを否定している。。。
イエスは「わたしを愛しているか?」とペテロに聞く。
この聖句を見ると、ジェームズを思い出します。
口からガムを出して、「Do you love me? 愛しているならこのガム食べてよ(笑)。」
いま思えば、若いなあと思う(笑)。
ここでの会話。イエスは何を伝えたかったか?
ペテロは一生忘れなかったはず。
イエスの思いは、ペテロへの赦し、期待。何よりも愛。
イエスを愛することは、羊を飼うこと。
ペテロは、これを完全に捉えた。
言い伝えがある。後年、ペテロと奥さんは、イエスに反対する人に捕らえられた。
イエスを否定するように強要された。
もし否定しないなら、目の前で奥さんを十字架にかける。
それでもペテロはイエスを否定しなかった。
その後、逆さ十字にかかった。イエスと同じ十字架につくには自分は不完全すぎると。
このペテロにわたしは励まされる完全に変わった。
どんなに失敗して裏切ったとしても、そこに変わらない神様の愛がある。
ペテロは自分の罪、失望、自己憐憫を選ばなかった。
神様の愛と恵みをイエスによって掴み取った。 本物の岩になった。
今日、わたし達は神様の本物の思いを掴みとれていますか?羊を飼っていますか?
羊というのは、一人一人にとって違います。
家族、友達、教会内の関係、同僚。。。
本当に関係の中に入って愛せていますか?
わたしは、このように前に立って出来ていると言える者ではない。共に悔い改めて変わりたいです。
わたしの中にはどこかで、神様に選ばれてスタッフになったという傲慢さ、勘違いがあった。
怠惰になっていた。
自分は何者でもないからベストを尽くすのでなく、教会で働く夢が叶って満足してしまっていた。
人が救われないことにも鈍くなっていた。
一人の雇い人だった。霊的な責任を取ってこなかった。自分と周りの人に罪が見えても妥協していた。
偽善者だった。第1ヨハネにあるように、目に見える兄弟を愛せないものは、神様を愛せない。
誰よりも作り変えられる必要がある最たる者。
恵みでしかない。神様の思いを掴み取る決心をした。
羊を飼う決心、心に向き合う決心をした。
自分が悪い時、自分を責めるのは、実は自己中心、自己憐憫。
ペテロのように、イエスの思いを掴みとりたい。羊を飼うように責任を取って行きたい。
悔い改めは、誰かに叱られてやるものではない。神様のほうを向き直って、自分からやりたいと思うもの。
そして、神様が失敗ですら、喜びに変えてくださる。
聖書勉強中、3日間断食した。きついなと思ったけど、言われたからやったが、3日目の途中でやめた。
言われたからやっていただけと気づいたから。自分の確信でないと意味がない。
悔い改めとは、神様との個人的なもの。
いま、いろいろな人に個人的に謝っている。
キャンパスの兄弟姉妹一人ずつとお祈りしてもらっている。
暖かく、共感できる人に変わろうとしている。
このプロセスがうまく行っているかはまだわからない。
でも神様は、悔い改めた心に働かれる。
キャンパス一人一人も悔い改めている。
お互い入りあっているが、なかなか難しい。
そのなか、神様を求めている友人が与えられている。友人の中には、砕かれて十字架を知ろうと求めている人がいる。
ソリューションフォーカス(解決志向):
「問題と解決は、必ずしも直接的な関係があるわけではない。」とある。
わたし達には罪や問題はずっとあるけども、神様は働いてくださる。
これこそ、信じるものにはなんでもできる、ではないでしょうか?
ペテロのようにイエスが言ったことを完全に掴み取りましょう。
イエスの羊を飼いましょう。
そして、罪に向き合って砕かれて、神様を見ていきましょう。