私は救われて26年になる。
1990年、大学1年の時に高校時代の同級生に誘われて教会のハロウィンパーティーに来た。
合コンと思い、カウボーイハットで参加した。クリスチャンから、いやらしい奴と警戒されていた。
でも、世的なカウボーイが1991年にクリスチャンになった。
中国人のミニストリーをリードし、三年半インターンで教会勤務した。
その後結婚し、子供クラスなどで責任を与えて頂いている。
多くのことを経験した。信仰生活のターニングポイントについて話したい。
ポイント1:恥か罪悪感か
私たちは恥を感じやすい。そこから罪悪感が生じる。
生活の中で、幼い時から植え付けられてきたから。
「また忘れたの」「まだ仕事を覚えられない」「一生あなたはそんな人間」「なぜあなたは出来ないの」
皆さんはこう言われて、自分はダメだと思ったことはありますか?
でも、健全な罪悪感というものもある。一例を挙げます。
先日、ある兄弟とランチアポを取っていたが、忘れてしまった。彼は待っていたが諦め、職場に戻った。
「完全に忘れました、次はご馳走します」とメールした。
私は完全にミスをしてしまった。でも、「自分は酷い。友達と呼ばれる資格はない」と罪悪感がエスカレートすると、恥の領域になる。
健全な罪悪感は「私は悪いことをした。でも謝罪して赦され、愛を感じた」となる。」
不健全な罪悪感は「自分はダメだ。友達でいる資格もない」などのようになる。
自分はダメだと思うと、行き過ぎた罪悪感に至る。
相手を傷つけたことを認め、許されて、心が変わるのが健全な罪悪感。
それに対し、罪悪感が残ったままで「自分はダメだ」と思うのが不健全
弟子になり、善悪に対する分別を持ったと思う。
でも、罪悪感についてよくわかっていない。聖書から共に学びましょう。
ルカ15:11-24
この箇所、多くのクリスチャンの皆さんは何十回と読んだ聖句と思う。
これを罪悪感と恥の観点で見て行きたい。
古代世界においては、息子が健在の父親に財産を求めることは、親を親と思っていない行為。
父親の死を望む、父親の面倒の放棄も同然。
13節、距離的な遠さだけではなく心理的な遠さも含まれている。
もう父親の顔を見たくない、という心理の結果として旅立った。
この箇所で息子は「放蕩息子」と書いてある。
放蕩とは、自分の思うままにやりたい放題すること。
家の財産も使い尽くした。
放蕩息子は餓死寸前。異邦人の土地で食物を求め、汚れた動物の豚の餌すらもらえない。とても惨め。
皆さんは放蕩息子のように自分が正しいと振る舞い、失敗したことはありませんか?
2002年に結婚し、その頃に教会のリーダーシップに納得いかず
2003年後、教会の混乱の中で被害者・加害者なのか自分はわからなかった。
その後、5年間周りの助けを拒み続けた。
信仰生活が上手くいかなかった。
教会に来ていたが、聞きたくないアドバイスは一切聞かなかった。
2人の子供が授かったが、子育ての方向が一致しない。
夫婦生活でもお互い罵倒し合い、最悪だった。
会社からリストラにあった。どん底になった。
その頃の自分は、クリスチャンとして自分を恥ずかしく思っていた。
インターンとして人の救いのために努力したが、自分が関わった人は教会を離れた。
多摩地区に教会を作りたかったが、同志が引っ越してしまった。
牧師夫妻のような結婚生活を送れていない。
自分は恥ずかしい、ダメなクリスチャンと自分を責め続けていた。
あまりの恥ずかしさに、誰にも助けを求めなかった。
17節で、弟が我に返った。分別を取り戻した。
自分がして来たことは愚かなことだったと認めた。
我に戻ることは重要。悔い改めは我に戻ることからスタート。
放蕩息子は、悔い改める態度があった。
私はこの弟息子のように、我に帰る瞬間があった。
悔い改めを決心し、ある年の既婚者リトリートに参加した。
イム・ホー牧師の話で、聖書は結婚生活のためではなく、神様のために書かれた本だと改めて言われた。
それまでは、スタッフは夫婦生活が良くないとダメ、夫婦生活が悪いと神様との関係も悪いと思い込んでいた。
でもイム・ホー牧師の言葉から、夫婦関係が悪いのは自分が謙虚ではないだけで、神様との関係とは別問題であることを認めた。
健全な罪悪感を持って悔い改めることができた。
妻と子供に謝罪した。そして、兄弟姉妹の助けにより、立ち直った。
今はただ感謝しかない。
ポイント2:恵みを感じて自由になる
放蕩息子のお父さんについて考えたい。
父は弟から「財産の分け前をくれ」と言われて受け入れた。
異国に行くと聞いて、どのような結果になるか父はわかっていた。
でも、何もしなかった。息子を探しも、資金援助もしない。
苦しみの中で正気に戻ると知っていたから。
息子が帰って来たとき、彼が視界に入った瞬間、走り寄って愛した。
「失敗すると思っていた」「だから忠告しただろ」などとは言わなかった。
お父さんは、弟を恥じることなく悔い改めを認めた。
お前が息子であることは変わらない、愛していると。
ここにはお前の居場所がある、大切な家族の一員と伝えた。
息子の自尊心を認め、敬意を払っていた。
神様は私たちに恥じることなく、憐れみ、許してくださる方。
お父さんのように自尊心に敬意を払ってくれる。
息子が小学6年生。教会で、同年代の子供のグループにいる。
男の子が多い。個性豊かなクラス。揉め事がしょっちゅうある。
一年前にクラスを始めた時は、大人が威圧的に場を収める場面も多かった。
でも、田村寛さんから脆弱に伝えるよう努力しなさい、とアドバイスを貰った。
子供たちは教会で育ち、善悪を理解している。
親をよく見ている。親が悔い改めていなければ、偽善者と考えてしまう。
自分が変わっていく姿を見せ続けることで、恵みを伝えられる。
間違った神様を伝えてしまったら、GEPの学びは意味がない。
今日、放蕩息子に対する神様の愛を学んだ。
考えてみてください。周りの人はあなたをどうみていますか?
先日、息子から言われた。「パパは教会に行っていて楽しい?」
神様の恵みよりも、役割からのストレスが伝わってしまった。。。
私たちから恵みにあふれた神様が伝わっていますか?
自分の歪んだ捉え方によって、恥や不健全な罪悪感が生じた。
神様、兄弟姉妹の深い慈しみで恵みを感じた。そこから自由になった。
弟子になって26年間、良いこともどん底もあった。
どんな最悪な時でも、神様の恵みがあれば大丈夫と信じている。
恵みを感じた時、信頼できる。
神様の悲しみは、悔い改めにつながる恵みをもたらす。
神様に栄光を返していきましょう。
神様は過去の傷も失敗も栄光に変えられる方です。