タイトル:『十字架に向かうイエス』
ポイント:杯は飲まずにはいられない
ヨハネ 18:1-11 (新共同訳)
1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちと その中に入られた。 2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。 3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司⻑たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そ こにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。 4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、 「だれを捜しているのか」と言われた。 5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエ スを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。 6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れ た。 7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。 8 すると、 イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」 9 それは、「あ なたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。 10 シモン・ ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであ った。 11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
イエスは「杯を飲まねばならない」という表現をしました。
これはヨハネによる福音書にしか出てこない独特の表現です。
どうして十字架をイエスは選ぶことができたのか?
ヨハネは何を見ていたのか?
イエスのことを間近で見続けたヨハネに、イエスと神様との関係は、どううつっていたのか?
父という関係
イエスは神様との関係を、父と子の関係であることが本当に大切だった。
だから何度も表現している。
話している。
そのように感じたのではないでしょうか。
どこまでも親密で、どこまでも共に歩んでくださる父が、十字架でも共にいてくださる。他の誰もが家に帰ってしまい共にいなかったとしても、 父だけは共にいてくださり、十字架の苦しみの中でも決して自身を孤独にされない。
ご自身の家は御国であり、十字架を成し遂げてそこに帰っていくことをイエスは神様との関係で感じていたかもしれません。
イエスと神様との関係は、他の誰の関係よりも深い、父と子の関係。
十字架は栄光
ヨハネ 17:1
1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
栄光とは?
輝き、勝利、名誉、喜び、そのようなもの
イエスにとって十字架は栄光でした
イエスは全てを理解されていました。
イエスは神様が御心、思い、ご計画、自分が十字架にかけられた先にあること全てを理解していました。
イエスにとって十字架は苦しみではないということ、困難ではないこと、背負う必要のある重荷、 人を愛するためのチャレンジ、ではなく、イエスにとって十字架は神様の輝かしい栄光でした
「父なる神様と本当に親密なイエス」、「神様の御心を成し遂げ、栄光とされようとするイエス」を 共に見ていきましょう
イエスのようになっていきましょう。
どれほど苦しかったとしても、難しかったとしても、感情的には恐れ、嫌な思いがあったとしても 神様と一つになって、神様の御心が実現されるために、栄光が現れるために 共に歩んでいきましょう。
神様が共におられ、神様の御心が現され栄光になることを喜び、期待するのであれば 私たちの弟子人生は最も大胆になり、神様との関係に喜びで満ち溢れていくのではないでしょうか。