『心の目が開かれる Enlightened エフェソ1:15−23』
インドネシアから久しぶりに来て、皆さんの愛と暖かさに励まされている。
SEAリージョンは山﨑夫妻なしに今の形はありえない。
彼らをいつも支えてくださっている皆さんに感謝している。
30年前、とても興奮していた。最初の3週間で友達が3人洗礼を受けた。
しかし、その興奮は長くは続かなかった。
次第に神様を伝えることに重荷を感じるようになってしまった。
素晴らしい人々に囲まれていた。
正しいことをしようとロボットのように必死だった。
皆さんもそのように感じたことはないでしょうか?
ある突然、この聖句に出会った。
神様が心の目を開いてくださった。
神様への見方、教会への見方が完全に変わった。
クリスチャン人生を楽しむようになった。
そのときから変わらない。
そして教会も同じように楽しむように心の目が開かれた。
イエスキリストにより、自由になり喜びの人生を歩む多くの人々を目撃している。
イエスキリストは十字架で完全にわたしたちを自由にしてくださった。
しかし、わたしたちの社会の文化によって、わたしたちはまた奴隷になってしまっている。
以前よりもいまわたしはハードに働いて頑張っている。
しかし重荷はない。
エフェソ1:18-19
パウロは教会に、皆さんの心の目が開かれるようにと言われた。
なぜ目が開かれるのか?
神様が何のために招いたかがわかることと、
いま受け継いでいるものがどれほど豊かなのかがわかる。
人々は世の中において目標のため、豊かになるために勤勉に働いている。
そして人々は力が欲しい。
しかし、皆さんは既に持っている。
そのことをわたしたちはどれほどわかっているか?
もしそのことがわかっていれば、世の中で生きるようには生きない。
神様の力で生き生きと生きるようになる。
エフェソの1章から3章を時間をかけて読むと、
わたしは既に天国にいるのだと気づかされて驚かされる。
なぜならわたしたちは、天国へ行くために必死に働いてきた人々を見てきたから。
わたしたちは既に天に住んでいる。
もちろん、わたしたちはいま地上に生きている。
しかし、天国で起きることが地でも起きるように願っている。
地上で起きたことは天でもつながれている。
善いことを行うのは、天国へ行きたいからではなく、
もうわたしたちは天国にいるということ。
わたしは以前、自分がしたことで自分を計っていた。
計り:「行う」前に「ある」に変える必要がある。
エフェソ1-3章:わたしたちは何者か
エフェソ4−6章:わたしたちは何をするか
自分がしたことをジャッジしてきた。
エフェソの4-6章を読み、よい夫、父になるように
行動に努めてきた。
そして疲れた。
あるとき自分はエフェソの1-3章を読み、
自分が何者であるかを知り、既に豊かな者であることに勇気づけられた。
ある-行う-得る
このサイクルがあるが、
神様のわたしへの愛は、わたしの行いには全く影響されないことを知り
ほんとうに励まされた。
わたしたちは、何者であるかを知ることからまず始める。
そしてそこに基づいて、行動する。
しかし、サタンは間違ったことを語りかけてくる。
創世記3:4−5
「それを食べる(行う)と神のように目が開けて(得る)あなたは何者かになる(be)ことになる。」とサタンは言った。
しかし、神様は既にわたしたちを、神の似姿に造られた。
サタンはそれを捻じ曲げた。
それによって、わたしたちはなにか行いをすることによって、得ると勘違いするようになってしまった。
何かをして得ると世の中は教える。
しかし神様は逆。
エフェソ2:8−10
わたしたちがまず何者であるのかからスタートする。
そのことによって行動する。
わたしはクリスチャンになれた恵みに感謝している。
わたしの行動により、わたしたちが聖なる者になれるわけではない。
神様は既に神の似姿のように造ってくださっている。
わたしたちは誰も正しい人ではない。罪を犯す。
だから恵みにより、神様は救ってくださる。
わたしたちの行いにより、救ってくださるわけではない。
神様はこう言われる。
「わたしはあなたを造った。これはわたしからの贈り物。
あなたは神の創造物。完璧で聖なる者。神のイメージに似せて造った。」
だからわたしたちはキリストによって新たに作られた者。
だからわたしたちは新しい行いができる。
よいことを行えばキリストのようになれると思っていたわたしの目が開かされた。
そうではない。わたしたちは既にキリストのように造られているのだと。
わたしは天から来たから、善いことを行っている。
天国へ行くために善いことをするのではない。
そのときから、正しい人生を生きることはもっと軽くなった。
なぜわたしたちは性的な罪や貪欲を避けるべきか?
わたしたちが聖なる者だから。
ワールドカップでは、世界中が日本人に驚いた。
散らかすのではなく、観に来た人たちがスタジアムを綺麗にして帰った。
高いチケット代や飛行機代を払ってきて、無償で綺麗にする。
なぜ彼らはそのようにするのか?
インドネシア人は驚いている。お金をもらっているのか?
日本人の性質。カタールであろうが、どこであろうが彼らはそれをする。
それが日本人だからだ。道路はいつも綺麗。日本人は家の中だけでなく、道も掃く。
こんな国はほかにない。
シンガポールも綺麗。しかしそこにはお金が支払われているし、罰金もある。
日本人は何者であるかに基づいて行われている。
もしあなたが日本人としての性質としてそのように行動できるのであれば、
皆さんは聖書の性質に基づいて行動し、世界をひっくり返すことができる。
インドネシア人にはそれができない。何度も何度も教えないといけない。
しかし皆さんは既に持っている。
皆さんが持っている健全な文化。
文化の中にはハードワークしてそれにより何かを得ていく文化もある。
それは手放していただいて。
エフェソ1:16-17
パウロは絶えず神様に願っているという。
もっと多くの説教を聞いたから、聖書を読んだから、がんばったから神様を知ったのではない。
彼は自分が何者であるかにフォーカスして、そのことにより神様に近づいた。
本を読むこと、知識を読むこともよいこと。
でもなぜ神様が個人的にあなたに神様の性質を示してくださるのに、
他の人から得ないといけないのか?
皆様自身が神様から啓示を受けて、他の人に神様を伝えていく者ではないでしょうか?
わたしたちの文化は行動や目標を達成することがよい、
忙しいのはよいと教える。
朝起きた時から忙しい。
自分が何者であるかを忘れてしまう。
詩編23:1−3
このことを信じていますか?
これが神様があなたに望んでおられることだと信じていますか?
それとも、文化のほうを信じていますか?
創世記2:2−3
安息日は神様によって最初に創造された。
この世界がはじまったときに神様から造られた。
休むというより、もともとの言葉は「止まる」。
神様は疲れる方ではない。神様は6日間の仕事を7日目に止められた。
なぜか?世のためによい目的があったから。
動物、地上、なにより人にとってよいことだったから。
わたしたちは週に5-6日必死で働き、疲れて休む。
これは全く違う。
疲れたから休んでほしいのではなく、神様は人生のリズムを持って善い働きを行われるように
このことを定めた。
神様は疲れたからではなく、計画して止まりなさい。
このことはよいことだと言われる。
あなたが止まるとき、新しいことを神様はしめしてくださる。
もう一度働くとき、新しい視野を与える。
毎週ではく7年ごとに定められた。
イスラエル人はこれに従った。
出エジプト23:10-12
イスラエル人は70年間、バビロニアの捕囚となった。
なぜ70年?
彼らは70回分従うべきだったのに、従わなかった。
土地に必要な休みを与えなかった。
7年目には休園といって、土地を休ませなければならなかった。
6日間働き、7日目は休むようにとも。
イザヤ30:15
立ち止まって静かにしていなさいと言われる。
でもあなたがたはそれを望まなかったと。
これは私たちの文化に反する。
この安息日に従うから、天国へ行けるとは言っていない。
安息日は人のためにあるのであって、人が安息日に従う奴隷になるわけではない。
わたしたちは律法の元にはいない。
だからといって、神様の知恵に従わないことはない。
安息日はいつ取りましたか?
“サバティカル(安息)は霊的な刷新のため。
目的をもって計画的に止める時です。
安息の目的は、わたしたちの生活の雑念を一掃し、神のもとで休息し、神の恵みを新たに
体験するようにすることです。
サバティカルは未来への投資である。“
多くの人にカウンセリングするとき、わたしはサバティカルを勧める。
休むことに対してギルティ―になる人も多い。
しかしこれは、皆さんの、教会の未来のための建設的な確実な投資。
目的を持って止まる。バケーションではない。
“サバティカルはバケーションではありません。
それは異なる種類の仕事です。それはリフレッシュ、再生、活力と健康(霊的、感情的、身体的)の回復のための時間です。神とより深く親密になることを意図して、より近づき、より注意深く親密になることを意図して、より近づき、より注意深く耳を傾けるための時間なのです。読むこと、書くこと、祈りの中で格闘すること、特に忙しさに追われる傾向との戦い、成果主義を手放す戦いなどが含まれます。“
生産的な仕事。立ち止まっているけれどもリフレッシュのために健康であるために必要。
より霊的な状態、体の健康に働きかける。
意図的な立ち止まりは、神様を親密に感じられ、神様が自分に望むものをわかるようになる。
皆さんも時間を取って、書いたり、読んだりすることによって成果主義から解放される。
わたしはもともとワーカホリック。育った環境では、寝ることすらだめと言われてきた。
だから、夜中の2時3時でも働いていた。
妻のバーニャに「あなたはイエスではない。イエスさえ休息された。」と言われた。
毎日2,3時間の睡眠。生産的だと思っていた。
わたしは教会に対し、神様がどのような方か伝えるスポークスマンとして呼ばれた。
わたしが語ることを通して神様の性質を伝える目的があった。
しかし、わたしはやることに追われて神様の性質をみえなくなった。
わたしも教会も疲れ果てていた。
もし皆さんがリーダーシップにいるのであれば、サバティカルはもっとも効果的なリフレッシュ、投資になる。
神様が教会をどのように導こうとしているのかに対し、もっと繊細になり、神様と親密になった。
それはわたしが立ち止まることを学んだから。教会のリーダーシップにとってはよいこと。
わたしとバーニャはサバティカルを取る予定がある。
多くのリーダーは燃え尽きてからそうする。疲れすぎて動けないから休むと。
しかしそれは本来のサバティカルではない。
教会の一人ひとりがこのことを実行するから、教会に驚くべきことが起きる。
もしかしたら何年もリードしてきたリーダーがいたら、このときかもしれない。
数年ごとに2-3か月、リードをやめてみる。
そして戻ってきたら、よりよい視点が与えられる。
SEAリージョンのスタッフ全員が数年かけてやるべきだと思っている。
そして教会員全員が、計画してこれをやるべきだと思っている。
皆さんに強くお伝えしたいのは、まずスタッフから実践し、模範となってください。
これを実践した人が生産的になっていない姿をみていない。
燃え尽きかたら休むというのとは違う。
民数記8:23−26
これは神様がモーセに伝えたこと。
50歳になったらリーダーたちは日々の奉仕からリタイアしないといけない。
当時は寿命がもっと短かったので50歳を文字通り取る必要はない。
日々の務めからリタイアすることであって、務めから完全にリタイアではない。
世の中のリタイアは退職してバケーションに行くこと。
霊的にはこれをしてしまうと、霊的に死んでしまう。
1年間なにもしないと3ポイントづつIQが下がるという。
そのような世の中の何もしないリタイアは危険。
日々の奉仕から離れ、異なることをすること。
たとえば、立ち止まって、より若い人たち、25歳の人々がもっと働きをするようにできること。
怠惰になるとは違う。
いまインドネシアではこのようなことを行っている。
9年前、わたしたちはインドネシアの教会のリードをブディ夫妻に移した。
ブディ夫妻から今年、別の夫妻に全インドネシアの日々の務めを移す。
もっと忙しくすれば生産的ではない。
毎週、数年おきにわたしたちは立ち止まる必要がある。
燃え尽きたからではなく、神様の原則だから。
これに従えば、もっともっと生産的な人にわたしたちはなれる。
わたしたちは善い業を行うように造られた。
わたしたちは立ち止まるように造られた。
立ち止まるならば、生産的になれる。
わたしたちがまず何者であるかにまず心を留め、
そのように行動するのであれば、わたしたちは喜んだ人生を歩める。
皆さんの心も目が開きますように。