『聖霊に促されて試練に向かう』
試練があるとわかっていて、なぜ人はそこに向かうことができるか?
今日は、そのような難しい中でも、神様と聖霊に頼って動く、そのことを使徒言行録から学びましょう。
使徒20:18-25
パウロは二度と会えないとわかっていて、この話をエフェソの長老たちにしていた。
感情的で感動的。パウロがどれほどエフェソの教会を特別に愛していたか。
パウロはエルサレムに行く。聖霊に促されて。
はっきり告げられているのは、投獄と苦難。
縛られる。投獄。苦しみ。
パウロは命を意識して話している。
それでもパウロは、自分の道を全うしようとしている。
ここまで潔く言えるパウロはかっこいい。
わたしは臆病な性格をしている。
小さい時に犬に追いかけられた経験から、犬に吠えられると心臓がバクバクする。
怖いことがたくさんある。
教会スタッフお墨付きの生粋のアボイダー。
言い争い、大きな声、摩擦、筋肉痛、注射、、、
好きな苦痛は水風呂と辛いラーメンくらい。
わたしがパウロなら、エフェソの滞在をあと2年延ばしたかも知れない。
今日のポイントは一つ。
『聖霊との二人三脚』
霊に促されて:
促されるは、Deo(ギリシャ語)= to be bind, bond 密着される、くっつけられる
どうしようもなく、密着されている。直接的。
ふわっとしているのではなく、
どうにも逆らえない力。
二人三脚のよう。脚をいっしょに固定されている。同じ方向へしか進めない。
聖霊に密着されているからこそ、御心を実感しているパウロ。
2018年に母を亡くした。ライフチャートに書いた。
そのときに、ある兄弟に、「確かにお母さんの死は悲しいことだったと思う。
しかし、お母さんとの思いでは悲しいことばかりではないよね。お母さんとの思い出にもう一度向き合ってみたら?」と言われた。
しかし、わたしはむずかしいと感じていた。
その中で今回、このエルサレムに向かっていくパウロから学びたいと思った。
そして、聖霊に従うことをしたいと思った。
わたしは気乗りしなかったが、いま改めて母の死に向き合うことを聖霊に促されているように感じた。
千葉にある母のお墓に向かう途中、人身事故で電車が2時間止まった。
事故のことを祈りつつ、いま絶対行くべきと感じた。
母のお墓は、祖母のお墓でもある。子供の時はとても遠くにあるお墓の印象だったが、大人の足で歩くと駅からは近かった。
家族内の不和、親戚関係の問題が浮かんだ。
母の最期はそのような問題があった。
しかし、今回、母に愛されたことを思い出すことができた。
聖霊は、道を示し、背中を押してくれただけではなく、神様の愛を感じるようにしてくれた。
取り組む力を与えてくれた。
聖霊との二人三脚は、パワフル。お父さんが子供を抱えて走っちゃうような。
自分を凌駕する力がある。
使徒20:23−24
パウロは聖霊の存在によって恐れを乗り越える力をもらった。
わたしたちにも。『愛には恐れがない』と聖書にはある。
聖霊とともに走りぬくとき、恐れがないわけではなく、恐れをも凌駕する勇気と力をもらう。
使徒20:26−27
パウロの役割は福音を宣べ伝えること。結果は神様に委ねた。
成長は神様が与えられること。
わたしたちは結果にとらわれすぎないようにすべき。
先日、私たち夫妻と新津亮さんでインドネシアのヤンチェさんと時間を過ごした。
アーツミニストリーのリーダー。
とても気さくで日本語も話せる。英語も聞き取りやすい。
彼は日本のことをとても心にかけていてくれている。
何度も“Just do it!”と言われた。
「結果は神様が与えてくださるもの。気にしすぎないで。がっかりしなくていいよ。」と。
「でもがっかりしすぎるなら、そのことを神様に委ねたらいいよ。」と。
自分の信仰が弱まっていたなと思った。すごく刺さった。
インドネシアとのカンファレンスの後も、ヤンチェさんが呼び止めてくれて
「Hey Shin! 信仰が大事。」と言ってくれたことを思い出した。
わたしたちは聖霊に縛られて、勇気と信仰をもって、もっと前向きになれる。
聖霊にぐっとひっぱられていると感じますか?
ときに試練があるとわかっている中に、大胆に信仰を持って歩めますか?
わたしたちは既に聖霊に縛られています。
イエスの福音を喜びと情熱により宣べ伝える先はどこでしょうか?
聖霊はどのようにささやいているでしょうか?
わたしが母のことをするには、まず静まる必要があった。
自分を捨てて神様のほうを向き、聖霊の声に耳を傾けた。
静まって神様の声を聞く時間を取ることがまず必要。
静まって終わりではなく、ぐっと引っ張られたら、大胆に聖霊に従って歩んでいきましょう。
わたしたちに委ねられている福音を大胆に宣べ伝えていきましょう。