『イエスは現れた』
スライドはこちらから→20210704 ヨハネシリーズ イエスは現れた
全国の教会が参加して作り上げられること、感謝です。
ヨハネシリーズのテーマ:イエスを正しく見る
今年の教会のテーマ、生きるとはキリストとも繋がる。
ヨハネシリーズのテーマ聖句:1ヨハネ3:2
私たちがどれだけ愛されている神様の子供なのかを知っていきたい。
「御子に望みをかけている人は自分を清める」と3節でヨハネは書いている。
イエスのように清くなることを促している。
イエスを正しく見ることを学んでいきたい。
Q:「初めに言葉があった」この一文でヨハネの福音書で始まりますが、ヨハネはイエスのことを「言」と表現しました。
この「言」と訳された元々のギリシャ語の単語は何でしょうか?
- ロゴス
- ロハス
- チュロス
- カオス
- バルス
正解:1。ロゴスには平和という意味がある。
神様を表す言葉としてヨハネが用いたのは大きい意味があると思う。
ヨハネの福音書には、他の福音書にない特徴がある
・時系列では書かれていないが、全体は一貫性がある
・例え話がひとつもない
・イエスが自分自身を表した特徴的な7つの「私は〜である」が記録されている
・人との対面からのメッセージが多い
・全体の3分の1が最後の一週間のことを描いている
ポイント1:直接見て、認識する
ヨハネ1:35-45
イエスが最初に弟子に出会う場面。
弟子になる者たちはイエスに出会い、過ごして心動かされ、他の人に紹介する。
それぞれがイエスを表現した。
・バプテスマのヨハネ「神の子羊」
・アンデレ「メシア=油を注がれた者」
・フィリポ「モーセが律法に記し、預言者が書いた方」
・ナタナエル「神の子、イスラエルの王」
皆さんはイエスをどのように見ていますか?
あなたにとってイエスはどうでしょうか?
イエスは自分が何者かを一切話していない
イエスが自分のことを何も言わなかったこと、注目したい。
ヨハネ1:14
イエスのことを、客観的事実のように書いている。
何かが示された時、私たちは認識しないといけない。
どのようにしてロゴスを認識できますか?
イエスが弟子たちに唯一言ったこと、「来て、見なさい(Come and See)」
直接来て、見ることを呼びかけている。
ダイヤモンドの原石、ピカピカしていない。
見てもわからない。直接触れないとわからない。
私たちをイエスは招いて、直接触れるように求めている。
イエスは自分の表現は一人一人に任せた。
イエスを正しくとらえるには、自分で触れることが大事。
イエスのもとに行き、触れていきましょう。
一年以上コロナが続いている。
私が気づいたのは、どんなに無駄な時間を使っていたか、オンラインで済ませられる用事がどれだけあったかということ。
逆に、本当に直接会うことはどの場合に必要なのか、考えさせられた。
ダイヤモンドのようなものかもしれない。
実物は目にしないとわからない。
人は生き物、画面で伝わらないものがある。
コロナに気をつけないがら、深い部分については会うことにこだわっている。
聖書勉強の深い部分、カウンセリングなど。
経験、体験しないと理解できない。
「Come and See」の意味が高められる。
「マインドフルネス」がビジネスでも有効と言われている。
今この瞬間に焦点を当てる、意識を集中させると言う意味。
スキーマの世界でも重要と言われる。
私たちは今日この時も神様を感じ、歩んでいる。
瞑想すること、心を落ち着かせるなどの定義がある。
実践して、霊的に役に立っている
「Human Being」は実践することが大事。
信仰の先輩たちが実践してきたこと。
今の時代になぜ重要か?
その場にいることが難しいから
忙しさ、不安や恐れ、目の前の誰かの前にいることが難しくなる。
本当の意味で受け入れること、イエスに触れるためにはその場にいることを選ばなければならない
心をさらけ出し、感じることが必要。
少なくとも自分はそう。Come and Seeしないといけない。
なぜならイエスもそうしてくれたから。
昔会ったことがある、という過去形は意味がない。
昔運動していた、楽器やってたと一緒。
私たちは今日も、来て見ないといけない。
体が動かない時でも、イエスに直接触れることが出来る。
ポイント2:信仰によって認識する
ナタナエルが召命される場面、ヨハネの福音書にしか出て来ない大きく変わった場面。
だが、会話の意味がよくわからない。
ナタニエル:「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」
→カナン出身、ナザレの隣町。ライバル関係だったという説がある
イエス:「見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」
→イエスはナタンの心の奥にあるものを見たという解釈が多いが、私は異なると思う(後述)。
ナタニエル:「どうしてあなたを知っておられるのですか?」
イエス:「わたしは、いちじくの木の下にいるのを見た。」
→「いちじくの木の下にいる」というのは、神様を求めているという表現。
ナタニエル:「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
イエスは「あなたはまことのイスラエル人」とナタナエルに言い、ナタナエルは喜んだ。
だが、原語で読むと「ヤコブ、嘘つきである」と書いてある。
創世記に登場するヤコブ、嘘をつき続けた人。
イスラエルの文化、神様を求める人は何を見ないといけない?
自分を認めないといけない。
自分がいかに罪深いか。
自分が真実ではないこと、いかにわかるか。
神様は偉大。
神様を求めるユダヤ人、その認識を離れない。
ユダヤの暦の中で最も大切な日、秋にある贖罪日。
その日は必ず仕事も休んで、いかに自分が罪人かを覚える。
信仰、神様の偉大さ、自分たちの罪深さを覚える。
ヨハネ1:51
創世記28章から引用されたヤコブの箇所。
神様と出会い、その場所をベテルと名付けた。
ヤコブ、嘘に嘘を重ねて逃亡中に神様に出会った。
神様に純粋な信仰を持ちながら罪深さを認めたとき、神様に出会う。
その信仰がなければイエスに出会えない。
謙虚さの梯子、1000年前からクリスチャンで実践されている。
1.神を畏れ、神を感じる
2.神の意思を行う
3.他の人の指示に自身を従わせようとする
4.他の人の難しさを忍耐して受け入れる
5.自分の弱さと欠陥について、他の人にどこまでも正直である
6.自分が「罪人の頭であること」を深く認識する
7.少なく話す
8.神の愛に作り変えられる
特に大事なのは、6番目。
生きた神様であるための実践。
ナタナエルの姿に励まされる。
最近、自分の罪深さを認識した。
自分が助けが必要な人間とわかる。
神様に出会うと、安心して罪人であることを認識できる。
それは最高に神様を見る機会、それを喜ぶ文化に教会を変えたい。
本物の生きているイエスに会いましょう。
共に学べることを楽しみにしています。