『遠くから、近くへ』
スライドはこちらから→20210221 エフェソシリーズ2 遠くから、近くへ
先週はエフェソの1章について神様の恵みから話しました。
ある特定の問題について話されていない珍しい手紙。
パウロの神様への思いが最高潮に表れている。
神様のわたしたちへの直接的なメッセージを学んでいきましょう。
エフェソ2:11-22
「いかに神様の恵みが素晴らしいか」ではなく、まず「わたしたちが神様から遠く離れていたこと」に言及。
13:遠く離れていたが、近くに
エフェソの人々は、ほとんどが異邦人だった。ユダヤ人から見て外国人。
ユダヤ人たちは、自分たちは神から近く、異邦人を遠く離れた者と呼んでいた。
ユダヤ人であるパウロがストレートに、本来あなたたちは神様から遠く離れている存在だったと伝えた。
隔ての壁があったと。
「隔ての壁」は、神殿の造りを表す。
真ん中には「聖所」があり、祭司しか入れない。
聖所から出た場所には「イスラエルの庭」がある。ここにはユダヤ人の成人男性しか入れない。
少し離れたところに「婦人の庭」があり、ユダヤ人女性しか入れない。
その外に「異邦人の庭」がある。
異邦人たちは、ユダヤ人の庭や聖所に決して入れなかった。
いくら神様を信じていて、中に入りたくても絶対的に無理だった。
2:18 近づくことができる=アクセス権がある。
しかし、イエスキリストにより、隔ての壁が取り払われた。
神様に近づくことができるようになった。
2:13 キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となった。
わたしたちはどこから来た、どのような者であったかを忘れてしまう。
コロナ禍で、当たり前のことは当たり前ではないことを感謝する言葉をよく耳にするようになった。
しかし、わたしたちは忘れがち。
当たり前ではないことを忘れ、がんばってしまう。なんとか自分の力ですればと思ってしまう。
神様の恵みは当たり前どころの話ではない。
絶対に立ち入れないほど遠く離れていたのに、今日、近づくことができる。
今日、イエスの十字架の力強さ、恵みを一緒に覚えましょう。
同時に、わたしたちがいかに遠く離れていた者だったかを思い出し、神様の恵みを味わいましょう。
最近面白い調査結果を目にした。
思い込みについて。アメリカの研究。
いかに人は、自分のことを人よりも優れていると思い込んでいるかについて。
ある大学の大学講師の90数%は自分は他の講師よりも優れていると思っている。
80数%の生徒は、自分は平均以上の学生だと思っている。
運転免許を持っている90%以上の人は、人よりも運転が優れていると思っている。
わたしは自分もそういう人だと思っている。
自分が平均以下だと思うのは至難の業。
最近、自分は大丈夫ではないと思うようにしている。
関わっている周りの人に正直なフィードバックをもらっている。
自分が思うよりも愛深く、思いやりがあり、話しやすい人間ではないと、深く心に向き合えている、
わけではないと神様に真実を教えてもらっている。
もう一つ取り組んでいることは、それでいいと自分を認めること。
遠く離れている自分を「アーメン」という。
神様の必要性をもっともっと感じる。
遠く離れていたから、近くされた恵みを味わえる。
今日一緒に十字架の恵みを覚えていきましょう。
「お互いに、遠く離れていた」のポイントは垂直の関係、つまり、神様とわたしたちの関係だった。
また、ユダヤ人と異邦人の間に壁があった。
もともとは境界線であるだけだったが、差別や偏見を生んだ。
ユダヤ人も異邦人も嫌い合った。
ある人と出会って、友達になりたいと思った場合を想像してみてください。
その人が「話す前に質問があります。割礼を受けていますか?」
「割礼ってなんですか?」
「豚肉を食べますか?」「大好物です。」
「そうですか。カニとか鰻やシーフードを食べますか?」
「はい。大好きです。」「あなたは土曜日に仕事しますか?」
「毎週ではないんですが、時々。」
「ごめんなさい。あなたとは友達になれないです。あなたは汚れているんです。」
どう思いますか?
心の中で、「ふざけるなよ。そんなこというあんたが汚れているんだよ!」と思うかもしれない。
これはユダヤ人を悪く言いたいわけではなく、ユダヤ人のアイデンティティを参考にしたフィクション。同じような人種問題は今でもある。
世界中での人種差別。同じ人種でも、異なる人同士の“敵意の”隔ての壁はある。
人間同士の解決できない問題がある。
しかし、何がポイントでしょうか?
エフェソ2:16-17
キリストは、十字架によって、わたしたちが壊せない敵意をも滅ぼした。
遠くにいるユダヤ人も、近くにいる人も一つにできるということ。
これこそが福音。わたしたちが決して取り壊せない壁を、十字架が壊して
わたしたち全てを一つにすることができる。
昨年10月、少しコロナが落ち着いたころ、母親と福島を旅行した。
その目的は、父親の問題を解決するためだった。
最終的に父が生前言っていなかった問題のせいで、母は住むところを失った。
40年生きてきて一番きついことだった。全てをここで話せない。
裁判所へも行った。父の死だけではなく、この問題についても母とわたしでプロセスする必要があった。
そうしないと、傷があって人を愛せないと思った。
ホテルで、目の前に父がいると想定して感情を出した。隣に妻もいた。
罪に妥協せず、しかしそれ以上の愛を持って十字架の元へ行く。
自分の罪も見て受け入れて、赦すにはわたしには十字架が必要だった。
自分のプロセスが十分だったとは言えない。今もそのことを意識して取り組んでいる。
数年前から心に残っている言葉がある。
『頑張りだけでは行けない場所へ、恵みは到達させてくれる。』
作家、エリザベス・ギルバートの言葉。
“Grace will take you places hustling can’t.” by Liz Gilbert
今日共に、どんなに遠くにいても、近い者になれる希望を味わいましょう。
難しい問題、敵意の壁、それをキリストは取り払える。教会はそのような場所。
わたしたちは完ぺきでもない。弱い者。しかしながら、世の中にあってありえないものを一つにする希望を、世に与えていきましょう。
一緒に十字架を仰ぎ、福音に預かり、自信をもって世に伝えていきましょう。