『ファラオは神の栄光になる』
スライドはこちらから→20201018 ファラオは神の栄光となる モーセシリーズ3
今日はエジプトで起きた有名な10の災いについて話したい。
神様から召命を受けたモーセ。
最初は嫌だったが、その後ファラオに会う。
イスラエルの民たちがエジプトを去るために、神様が起こされた災い。
この場面を描いた映画『十戒』が有名。
出エジプト7-12章
災いが起きると、ファラオはエジプトから民を去らせようとするが、しばらくするとNoという。
そのたびに、モーセはファラオを説得するために、ファラオに会う。
神様は、ファラオの元に行きなさいと何度も命じた。
当時世界で最も強大な国だったエジプト。
世界を牛耳っていた。
血、かえる、ぶよ、ハエ、牛、腫物、火、バッタ、雹。
これらにはエジプトの神々がいた。
ファラオは太陽の子と言われていて、太陽信仰があった。
何度もひどいことが繰り返された。
1回の災いでファラオが心を頑なにする。
さらにどんどんひどいことが起きる。
なぜ10回もこのようなことが起きたか?
人間的には、もういい、神様なんだったら1回でどうにかしてという思いになる。
出エジプト10:1-2
『主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行きなさい。彼の心とその家臣の心をかたくなにしたのは、この私である。
それは、私がこうしたしるしを彼らの中で行うためであり、
また、私がエジプトにどのように厳しく接したか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子や孫に語り伝え、私が主であることをあなたがたが知るためである。』
神様がファラオの心を頑なにして、それによって神様がしるしを彼らの中に起こした?
違和感がある。
ファラオが頑なで、神様が厳しく接したのでは?
よく考えてみると、どういうことだろうか。
神様がファラオを頑なにしたとはどういう意味だろうか?
あなたは心が頑なだと言われたいですか?
いい意味で頑固とか、心を貫くというのではなく、正しいことを受け取れない、つまり、神様のメッセージを受け取れないという意味。
今日、わたしたちの人生に、頑なファラオはいますか?
正しいことをしたいのに、何度も聞くことができない、何度も神様を裏切ってしまう。
あなたの中のファラオは何ですか?
先日、ある兄弟に言われた。
「雄大は頑張っているけど、何を感じているか見えにくいし、何を考えているかわからない。」
実は2年前にも海外のゲストの兄弟に同じことを言われた。
これは聞きたくない言葉だった。
こんなに何年もトレーニングされていても、よっぽど意識しないと心を出せない。
これがわたしのファラオ。
今日、皆さんのファラオは何ですか?
わたしはファラオを見つけるたびに倒そうとしてきた。
そんなときに今日の聖句を読んだ。
わたしたちはファラオばかりを見てしまう。
いかに自分が頑なさがあるか、10の災いの意味などばかりを考える。
それが神様の栄光になるとは考えない。
神様がファラオを頑なにした。
それは奇跡が起きるためであり、神様の栄光が現されるためだった。
ローマ9:17-18
聖書はファラオに、「私があなたを立てたのは、あなたによって私の力を示し、私の名を全地に告げ知らせるためである」と言っています。
このように、神はご自身が憐れもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者をかたくなにされるのです。
神様の視点では、10の災いは10の奇跡。
このことがわかると、わたしたちの神様への信頼が全く違うものになる。
本当に頑なファラオが神様の栄光に用いられるのであれば、私たちの弱さ、罪、ゆがみも神様が変えることがおできになるという信仰をもらう。
恥と焦り。ファラオを倒そうとするとそれに圧倒されて終わる。
神様は罰を与えられる。
厳しい方ではなく、ただ砕こうとされるのではなく、神様はわたしたちの頑なさを栄光にしようとされるということを覚えている必要がある。
金継ぎのたとえ。日本の伝統技術である金継ぎ。
ひび割れたり欠けた器を金で修復する。
もともとの器よりも価値がある美しいものになる。
これこそが神様がファラオに、わたしたちに行われることではないでしょうか。
ファラオを見ることは気分がいいことではない。10個以上ある。
ほんとうに頑な。そのたびに圧倒され、あきらめたくなる。
でも、今日、わたしたちのファラオこそが神様の栄光になることを、わたしは信じたい。
罪、ひび、欠陥を神様に委ねたい。
皆さんへもお願いしたいです。
妥協しないでください。
これは自分の頑なさについてではなく、ファラオによって神様の力が示され、ファラオによって、神様の御名が告げ知らされるから。
神様を信頼することに妥協しないでください。
すべてを委ねて、神様を信頼していきましょう。
具体的に、2つのことを話します。
1.神様の元へ行く
Go To ファラオ(出エジプト10:1-2)
神様の元へ行くには、自分のファラオを見る必要がある。
自分の恐れ、不安、恐怖がある場所こそが、神様の栄光が現れる場所になる。
多くの人が心に向き合っているけど、本当のファラオにはなかなか会えていない。
そこで、神様が栄光にされることを心から信じることが必要。
神様は頑なファラオを変えられる。
罪、咎があるまま、神様に近付きましょう。
2.”あなたが子や孫に語り伝える“(出エジプト10:1–2)
神様がいたら問題ないということを伝えるという意味ではない。
10の災い、ファラオがいる。
わたしたちの人生。でも、神様が栄光に変えてくださる。
それを伝えること。
神様を伝えることはパフォーマンスではない。
ありのままの自分を伝える。
自分はいまでもファラオだけども、神様を味わっている。
こんな弱さがあるのに、神様は自分を用いてくださった、そのことを伝える。
今日は、Forgiven学び会が作り上げている礼拝だった。
小出陽平兄弟がいた学び会。
彼はわたしと1歳違い。
大学生の時から教会で一緒だった。
難しい病気があって、ご両親には何度も死にたいと言っていたと聞いた。
41歳で亡くなった。彼は弱かったのか?強かったのか?
強く、最後まで走りぬいた人生だった。
彼の人生は、神様の栄光になったとわたしは確信している。
わたしたちも神様の変えてくださる人生を信じていきましょう。